ロビンソンの「恐れ」との戦い
「ロビンソン漂流記」
(デフォー/吉田健一訳)新潮文庫
船が座州し、
嵐の海に投げ出された「私」は、
幸運にも陸地に
辿り着くことができた。が、
そこはどうやら無人島らしい。
命は助かったものの、
ここに猛獣や人食い人種が
棲んでいれば万事休すだ。
「私」の名は
ロビンソン・クルーソー…。
「十五少年漂流記」(ヴェルヌ・1888年)、
「蠅の王」(ゴールディング・1954年)、
いくつもある漂流冒険文学の
嚆矢ともいえる作品です。
数年前に初読したときには
「サバイバル生活を空想した
古典文学」としてしか
捉えられませんでしたが、
今回再読すると決してそのような
単純なものではないことに
気付かされました。
無人島でのロビンソンの奮闘は、
「耐乏生活」にではなく、
「恐れとの戦い」にこそ
その本質があったのです。
彼は一体何に「恐れ」ていたか?
ロビンソンの「恐れ」との戦い①
猛獣や人食い人種への恐れ
無人島に漂着した彼が、
生き延びるために最初に行ったことは
居住空間と防護柵づくりでした。
防護柵はもちろん猛獣対策ですが、
それ以上に彼が恐れたのは
「人食い人種」の存在です。
作者・デフォーがロビンソンの
漂流先として想定した海域には、
実際に人食いの文化を持つ民族が
土着していた島があったのでしょう。
しかしその島には猛獣は存在せず、
人食い人種とも最初の20年は
接触していないのです
(島での生活が20年を過ぎたあたりで
ロビンソンははじめて彼らに遭遇する。
20年の間、彼の居住区域付近には
彼らはほとんど出没していない)。
防護柵は、実際には
どちらにも活用されていないのです。
ロビンソンの「恐れ」との戦い②
人に対する恐れ
ロビンソンは人食い文化を持つ
現地の少年・フライデー(ロビンソンが
命名)と信頼関係を結ぶのですが、
それ以外の部分を読む限り、
彼も作者も「人食い人種」については
「人間」とは認めていないのではないかと
思われます(「猛獣」の一種と
考えていた節が見られる)。
ではそれ以外の人間に対してはどうか?
実は島の反対側の対岸に、
フライデーの一族が住んでいて、
そこに漂着したスペイン人十数名が
客人として生活していることを
知るのですが、
そのスペイン人との接触について
ロビンソンはかなり慎重になっています
(結局接触しない)。
当時、ロビンソンの母国イギリスと
スペインは関係が
悪化していていました。
スペイン人たちと無人島を脱出しても、
その後に奴隷として人身売買される
危険性があったのです。
しかし、その海域を英国船籍の船舶が
通過する可能性の極めて低いことを
考え合わせると、
その慎重さには疑問符がつきます。
ロビンソンの「恐れ」との戦い③
「罪」に対する恐れ
敬虔なクリスチャンではなかった
ロビンソンですが、
無人島での孤独生活の中で、
彼は次第に神の存在を
意識するようになり、
自分の「罪」についても
考えるようになりました。
特に人食い人種との遭遇の後は、
先手を打って彼らを殲滅して
自己防衛を図る作戦と、
自分に対して何もしていない人間を
殺戮する「罪」との間で
葛藤することになります。
フライデーと巡り会うまでの
孤独な彼は、
神との対話を繰り返しているのです。
それは聖書の中の「神」であるとともに、
自身の内にある
「神」との対話であると考えます。
そうしたことを考え合わせると、
28年にも及ぶ孤独な生活の中で
ロビンソンが戦っていたのは、
「自己」以外の
何物でもないことがわかります。
「疑心暗鬼」から始まった戦いは
「神の存在」にまで及ぶのですから、
その戦い自体が彼自身の
魂の成長過程でもあったのです。
「宗教」という観念の乏しい日本人には
まだまだ理解できない部分も
多いのでしょう。ここには
「漂流」「冒険」「サバイバル」といった
華々しい表面の影に隠れて、
人間の在り方の本質に迫るテーマが
いくつも隠されているのです。
名作は、やはり読むたびに
その深い部分が見えてきます。
読書の楽しみの一つです。
※昭和25年の日本語訳であり、
文章はいささか古くさく感じます。
新訳はでないものかと
思っていたら、
いろいろな出版社から
すでに出ていました。
なんと同じ新潮文庫からも。
さっそく購入しました。
いつか読み比べてみたいと
思います。
(2021.3.4)