佐藤の目にも怪しげなるものが見えていた
「山妖海異」(佐藤春夫)
(「夢を築く人々」)ちくま文庫
「山妖海異」(佐藤春夫)
(「美しき町・西班牙犬の家」)岩波文庫
鰹船が沖へ急いでいるとき、
波間から
女の死体が漂い出てくる。
関わり合いになるのを
避けたい漁師たちが
「帰りにはきっと浮かべる」と
約束すると、
死体はどこかに没し去る。
漁の帰り、
流れの上を通ったにも関わらず、
そこには…。
潮の流れを読んで、
ここなら絶対出くわさないと思った
その場所に、
しっかりと死体は現れたという、
いわば「怪談」です。
実は昨日取り上げた幸田露伴の「幻談」と
佐藤春夫の本作品が、
私の記憶の中ではいつも
まぜこぜになってしまっています。
共通点が多い上に、
作品から受ける印象に
近いものがあるのです。
一つは語り部の話を
集めた形であることです。
「幻談」は講談師の語り口で
前半部・山の話と後半部・海の譚が
語られます。
そのため小説でありながらも
海の譚の半分は釣に関わる蘊蓄であり、
随筆風です。
一方、本作品は熊野地方に伝わる伝承を、
「こんな話がある」と綴っています。
随筆のところどころに
昔話が挿入されている私小説といった
趣です。
一つは山と海の
妖しい話で構成されてあることです。
怪談は山と海で
一つながりなのかもしれません。
特に海の怪談の一つとして、
「幻談」同様、水死体を扱った話が
本作品にも出てきます。
成仏できない水死体が
現世の人間に何かを伝えるために
二度にわたって現れるという展開が
共通するため、私の頭の中では
記憶が交錯してしまうのです。
さて、
山と海に怪談の多いことについて、
佐藤はこのように考察しています。
「人魚は海の精で
漁者の不安とあじきなさとの
象徴であり、
『さとり』は山中の樵者の
恐怖とさびしさとでもあろうか。」
そして、
「人間にはこの
あじきなさとさびしさ、不安恐怖は
近代都市のただなかに在っても
つき纏っているかのように
思われる」と結んでいます。
その見解どおりなのでしょう。
漁者・樵者の衰退とともに
山海の怪談は姿を消し、
現代の怪談は舞台を都会へと
移行していきます。
まことしやかに語られる
怪しげな「都市伝説」は、
山海の怪談の
なれの果てなのかもしれません。
昨日はハーン、鏡花、岡本綺堂とともに
露伴を挙げ、
「明治という時代はまだ
怪しげなものや妖しげなものが
生き生きとしていた時代」と
書きました。
佐藤春夫も明治生まれ。
佐藤の目にも怪しげなるものが
しっかりと見えていたのでしょう。
羨ましい時代です。
(2021.3.8)