私生活を切り売りして大成した林芙美子
「魚の序文」(林芙美子)
(「風琴と魚の町・清貧の書」)
新潮文庫
無職の「僕」は
菊子と結婚したものの、
食うに困るほどの貧困生活を
余儀なくされている。菊子は
野草を摘んで食卓に並べたり、
裁縫の仕事をもらってきたりして
なんとかしのいでいる。
やがて菊子は「僕」に
夜警の仕事を持ってくる…。
「耳輪のついた馬」「清貧の書」と
同時期に書かれた
林芙美子の貧乏小説です。
ここでも夫婦の耐乏生活が
おかしみを持って描かれています。
散歩に出かけても、
菊子はその間に食材探しをしています。
「彼女の拡げた風呂敷の中には、
ひずるやたんぽぽや、
すいばのようなものまで
這入っている。」
「夜は、これらの摘草を茹でて
食卓に並べた。
色は水々しかったが、
筋が歯にからんで、
ひずるの噛み工合などは
まるで蒟蒻のようであった。」
菊子はもちろん林自身であり、
「僕」は夫・緑敏がモデルなのでしょう。
そのため、本作品は「清貧の書」と
一対の創作物として
考える必要があります。
二人の結婚後の生活を、
「清貧の書」が林の視点から
捉えたものであるならば、
本作品は
夫・緑敏の視点からのものであり、
自身を客観的に描きたかったのでは
ないかと推察できます。
二作品をくらべ読みすると、
当然共通点が見られます。
貧困に耐えかね、
菊子が裁縫の内職をしたいと
言いだしたとき、「僕」は
「馬鹿!食えなかったら、
食えないで仕方がないよ」と
一蹴します。
「清貧の書」では、米を買うために
なけなしの貯金をはたくと、
「金が無かったら無いように
ハッキリ云い給え」と
夫はお冠でした。
両者は多分、実際に
林夫婦の間に起こった出来事を、
形を変えて再現しているのでしょう。
お互いの見方も笑えます。
「清貧の書」では、
林は夫の絵画をけなしています。
「私はかつて、与一の絵を
そんなに上手だと思った事がない」。
一方本作品では、
林は夫の立場に立って、
自作の詩に注文をつけています。
「僕は心の中では
此詩に感服していながら、
一寸ここのところが
こざかしいと云えば云える
腹立たしさで、
彼女をジロリと睨んだ」。
このように、「清貧の書」と
本作品を合わせて読むと、
林の半生の赤裸々な実態が
見えてくるのです。
いや、「放浪記」「風琴と魚の町」
「耳輪のついた馬」などを
読み合わせると、
さらに林の人となりが
立体的な像を結んでくるのです。
林芙美子は私生活を切り売りして、
作家として大成したのでしょう。
悲しくもおかしい、
おかしくも悲しい人間像が
そこに見られます。
(2021.3.13)
【青空文庫】
「魚の序文」(林芙美子)