人生に忍び寄る「影」について書かれた作品集
「百年文庫030 影」ポプラ社
「菊の香り ロレンス」
夕闇が降り、
家路に向かう男たちの影も
まばらになったが、
夫はまだ炭坑から帰らない。
もしかしたらまたいつもの店で
飲んでいるのかも知れない。
そう思いながらも、
子どもたちを寝付かせたあと、
エリザベスは不安に駆られる…。
収録されている三作品とも、
人生に忍び寄る「影」について
書かれた作品です。
その「影」はそれぞれ異なります。
「菊の香り」は
平穏な一家に訪れた夫の突然の事故死。
でも、本当の「影」は「死」ではなく、
それによって浮き彫りにされた
「夫婦関係」なのでしょう。
夫だと思っていたけれども、
実は他人にすぎなかったという
事実こそ、「影」なのです。
「とおぼえ 内田百閒」
秋の宵、帰り道に
「私」がふと立ち寄った氷屋。
ラムネを注文したが、
主人の様子が何やらおかしい。
後ろに人魂が見えると言ったり、
同じ犬の遠吠えが別々の方角から
聞こえてくると言ったり。
主人は数日前に
妻を亡くしたという…。
「とおぼえ」は
日常に潜む恐怖といえるでしょう。
見慣れている風景にも
実は「影」が入りこんでいるという、
背中がぞくっとする感触が
何ともいえません。
「冬の日 永井龍男」
年末の二十九日に、
住み慣れた古い小さな家の畳を
張り替えた登利。
二歳になる孫娘は
娘婿・佐伯とともに
郷里へ帰っていた。
その日、娘婿の上司・進藤が
登利のもとに訪れる。
登利は進藤にある重大な決意を
告げようとしていた…。
「冬の日」は
愛する孫娘との永遠の別れ。
「影」を受け入れる決意をした女性の、
強くも悲しい生き方です。
そして三作品に共通するのは、
見えない部分である「影」を、
行間から読み込まなければならない
作品構造です。
特に内田百閒、永井龍男の二人の作品は
そうした傾向が強く見られます。
直接的な説明が少なく、状況証拠から
推察しないといけない部分が
大きいのです。
また三人の作家とも、
日本においては失礼ながら
「影」のうすくなった作家ともいえます。
名随筆家とうたわれた内田百閒は、
その多くの作品が絶版状態。
短編の名手・永井龍男も、
新潮文庫からの1冊以外は
講談社文芸文庫のみ。
ロレンスもチャタレイ夫人以外は
目立った作品が
出版されていない状況です。
残念としかいいようがありません。
百年文庫も全100巻のうち、
2021年3月現在、
読了は本書で50冊目
(記事掲載は28冊目)。
5年かけて
ようやく折り返し地点に達しました。
なかなか進まない理由は、
そこで出会った作家に魅せられて、
他の作品を
探して読んでしまうためです。
内田百閒は「冥途・旅順入場式」、
永井龍男は「一個/秋その他」を
読んでしまいました。
残り50冊。
道はまだまだ遠い。
(2021.3.18)