無意識のうちに読み手は自分を重ね合わせる
「百年文庫075 鏡」(ポプラ社)
「見知らぬ人 マンスフィールド」
長い船旅から
妻ジェイニーが帰ってきた。
待ち焦がれていた夫ジョンは
大いに喜ぶ。
しかし彼女はどこかよそよそしい
雰囲気をまとっている。
二人きりで過ごしたいと
願うジョンは急いで
ホテルの部屋へと戻るが、
彼女の話を聞き…。
百年文庫第75巻のテーマは「鏡」。
といっても「鏡」そのものは
三篇ともに登場しません。
では、テーマの「鏡」とは何か?
マンスフィールドの「見知らぬ人」では、
旅先から帰った妻の
よそよそしい態度に衝撃を受ける夫が
描かれています。
しかしそれは夫が描く
「自分だけの妻」という姿と、
妻が生きている
「社会の中の自分」というものとの
乖離の結果といえるでしょう。
夫がそれまで見てきた妻の姿は
鏡に映った虚像のような
ものだったのかも知れません。
「ヌマ叔母さん 野溝七生子」
外国に行ったきりだった
ヌマ叔母さんが帰ってきた。
ヌマ叔母さんの
温かな雰囲気に触れ、
鳰子はかつて母が
親戚中に言いふらしていた
「ヌマ叔母さんは
人食い鬼」という話が
全くの嘘であることに気付く。
鳰子の心は激しく揺れ動く…。
野溝七生子の「ヌマ叔母さん」では、
大人たちから伝え聞いている
ヌマ叔母さんに関する噂話が、
単なる虚言だったことに
子どもたちが気付いていきます。
鏡を通してではなく、
自分の目で実像をしっかりと
確かめていく姪・鳰子の姿が印象的です。
しかしそれでいながらヌマは
鏡に映った虚像のような
描かれ方をしているのです。
作者はヌマを、何かの象徴として
描出したのでしょうか。
深い味わいのある作品です。
「アヤメ ヘッセ」
有名な学者となった
アンゼルムは、
突然空しさを感じるようになる。
そして
友人の妹・イリスに恋をする。
彼が求婚したとき、
彼女は「私の名まえを聞いて
思い出させられるものを、
記憶の中に見いだして」という
課題を突きつける…。
ヘッセの「アヤメ」は、
「成功」を収めたものの、
それが空虚なものに感じている
大学教授が、
自らの人生を振り返るというものです。
遠い日に忘れ去った大切な感覚を、
鏡の奥をのぞき込むようにして
見つけ出そうとする主人公の姿は、
魂の再生の予感を感じさせます。
三作品とも、無意識のうちに読み手は
自分を重ね合わせてしまうでしょう。
男性であれば
「見知らぬ人」と「アヤメ」に、
女性であれば「ヌマ叔母さん」に。
鏡をのぞき込むような感覚を
読み手に与えるのです。
出版社のHPには「鏡のように硬質で、
でも一瞬にして砕けてしまいそうな、
繊細な心をたどる作品を集めました」と
ありますが、
それ以上にいろいろなことが
読み取れる作品たちです。
内省的な気持ちに浸りたいあなたに、
お薦めします。
(2021.3.24)