偶然が呼び込んだ必然
「霧の中の声」(遠藤周作)
(「幸せな哀しみの話」)文春文庫
平凡で小心者の夫を持つ信子は、
なぜか未来を予知するような
夢を見はじめる。
一度目は海外で起きた地震の夢。
二度目は若くして亡くなった
同級生の夢。
そして三度目は、
夫に突き飛ばされ、
車にはねられて
自分が死ぬ夢だった…。
モダン・ホラーのような
遠藤周作の短篇です。
ネタバレになるのですが、
彼女は結末で夢のとおり
車に轢かれて命を落とします。
しかし
夫が手を下したのではありません。
彼女がふらふらと
道路に飛び出したからです。
夢は人の潜在的願望の表れといいます。
信子は心のどこかで
「死んでしまいたい」と
願っていたのだといえます。
死の願望の底辺にあるのは
当然夫の存在です。
信子の夫は
定刻に家を出て定刻に帰宅する。
酒も煙草もしない。
家に帰ればテレビを見るか
一人で置き碁をするか。
ときどき家計簿を調べ、
無駄遣いを諫める。
浮気もしないかわりに
妻への愛情も乏しい。
失敗しないかわりに
昇進の見込みもない。
信子にとって、夫は
そんなつまらない存在だったのです。
でもいくら結婚生活に
魅力が乏しいからといって、
人間はすぐに
「死」に向かうはずはありません。
作者・遠藤は
二つの周到な仕掛けを施しています。
一つは
同じアパート内に住んでいる
青年・室井の存在。
彼は元エリート銀行員。
許されぬ恋に走り、
相手とともに駆け落ち。
結局は別れて独り身となる。
信子はこんな魅力ある
男性の隣人を持ったのです。
もう一つは夫の突然の癌発症。
もしかしたら夫が死んで
自分は自由になれるかも知れない。
そうしたら自分は
室井と一緒になれるかも知れない。
そんな自分の邪な願いと、
信子は向き合わなければ
ならなかったのです。
しかし夫の手術は成功し、
彼女の望みは潰えます。
室井との生活の期待が大きかった分、
彼女はもはや夫を
受け入れられなかったのでしょう。
彼女を追い込んだのは、
人間の浅はかな欲望と
弱くて脆い精神の作用だったのです。
予知夢を見た、といっても
それはただの偶然の産物です。
予知夢と思い込んだ段階で、
自分が死ぬ夢も
必ず起こりうるものとして
彼女の心に刷り込まれたのです。
すべての希望を失ったとき、
死の夢は必然性を持って
彼女の前に立ち現れたのでしょう。
偶然が呼び込んだ必然。
ホラーのように見えて、
実は緻密に構成された心理劇です。
遠藤周作の知られざる逸品。
大人の読書本としていかがでしょうか。
(2021.3.26)