生きる力に満ち満ちているのです。
「田舎言葉」(林芙美子)
(「風琴と魚の町・清貧の書」)新潮文庫
「わたし」は
何度か男と連れ添ったが、
結婚式を挙げたことは
一度もなかった。
好きだった男と一緒に
撮った写真すらなかった。
いや、いい思い出さえ、
一つも残ってはいなかった。
そのため十五になる姪には
いつもあきれられている…。
ここまで取り上げてきた
林芙美子の一連の短篇作品
「風琴と魚の町」「魚の序文」
「清貧の書」は、
すべてモデルが作者自身である
私小説であり、
作者の半生が投影されたものでした。
本作品の主人公「わたし」の歩みは
作者とはまったく重なりませんので、
完全なる創作です。
ここに綴られているのは
「わたし」の男性遍歴です。
一番目の荘吉は調子のいい男で、
夏の間に別荘へ越してきた
美しい婦人と関係する始末。
二番目の松田先生は人格者なのですが、
一度だけ「わたし」と関係を持ったきり、
後は知らぬふり、
すぐに美人の同僚教師と結婚します。
三番目・五平とは世話する人があって
嫁として家に入るもののうまくいかず
一年で「わたし」は家出。
四番目は仲居奉公した先の旦那ですが
早世。
五番目に義兄(亡くなった姉の夫)と
一緒になるのです。
とにかく関係が長持ちしないのです。
相手の男が
決定的に悪いというわけでもなく、
「わたし」が浮気性なのでもなく、
男運がないというか、
相性がうまくいかないというか。
もしかしたら「わたし」は
一人の男のもとに長く留まれない
「性格」なのかも知れません。
こうした「性格」は、ある意味、
作者・林のそれと十分に似ています。
私小説ではないとはいえ、
「わたし」の性格はやはり
林自身を色濃く映し出しているのです。
アバターといってもいいくらいです。
「私は宿命的に放浪者である。
私は古里を持たない。」という
「放浪記」の冒頭を思い出しました。
林の宿命的な魂の放浪癖は
「住む場所・住む町」だけでなく、
「一緒に暮らす男」にも
およんでいるのでしょう。
そして一連の「貧乏小説」で
貧困に屈していないのと同様、
「男運のなさ」に
押しつぶされてなどいないのです。
「生きとるのは愉しみなもんじゃと、
わたしはそればっかり考えとる。
叔母さんは眠っとるようで
よう飯ば食うと姪が笑うが、
飯ばうんと食べようたい。」
たくましいかぎりです。
昭和の混沌とした時代にあって、
生きる力に満ち満ちているのです。
平成を経て令和の時代となり、
日本人の何とひ弱になったことかと
思い知らされます。
林芙美子の生き方に
教えられるものが多々あります。
(2021.3.27)