「野呂松人形」(芥川龍之介)

何を言いたいのか、いまだによくわかりません

「野呂松人形」(芥川龍之介)
(「芥川龍之介全集1」)ちくま文庫

友人に誘われ、
野呂松人形を観に行った「僕」。
野呂松人形とは、
江戸から伝わる人形芝居であり、
美しいとはいえない人形を使い、
動きもはなはだ簡単であるのが
特徴だった。
「僕」はその人形を観ながら、
「芸術」について考える…。

芥川龍之介初期の一篇です。
「僕」=芥川自身の
私小説(であるはず)なのですが、
随筆のようでもあり、
芝居の感想文のようでもある
理解の難しい作品です。
そのため芥川が何を言いたいのか、
浅学の私には
いまだによくわかりません。

野呂松(のろま)人形ですが、
顔の青黒い奇怪な風貌の道化人形を
用いるものであり、台詞は狂言風、
現在は佐渡島に伝わる程度で
ほとんど廃れています。

人形芝居を観て「僕」が考えたのは、
「あらゆる芸術の作品は、
 その製作の場所と時代とを知って、
 始めて、正当に愛し、
 かつ、理解し得られるのである」

つまり、その芸術としての立ち位置が
理解されないまま、
現在(執筆当時・大正期)では
野呂松人形を顧みる人が
少なくなっていることを
憂いているのです。

そして「僕」は、その野呂松人形と
自分の文筆活動を重ね合わせ、
「僕たちは、時代と場所との
 制限をうけない美があると
 信じたがっている。しかし、
 そうありたいばかりでなく、
 そうある事であろうか。」

自問しているのです。

しかしそれに続く一文が
「野呂松人形は、
 そうある事を否定する如く、
 木彫の白い顔を、
 金の歩衝の上で、動かしている」

「僕たちの書いている小説も、
 いつかこの野呂松人形のように
 なる時が来はしないだろうか」

思い巡らせているところからも、
いずれは忘れ去られてしまうであろう
自身の文学についての不安が
見え隠れするのは確かです。
問題は前半部の「僕」の態度です。

自分以外の客のすべてが
和服で臨んでいるときに、
「僕」は大学の制服です。
煩雑な日本の服装を
面倒と感じてのことです。
そして開演直前に小用に立ち、
演目が始まってから、
他の客の間を通って着座するという
マナー違反まで犯しています。
最後は
「次の狂言を待つ間を、
 独り「朝日」をのんですごした」

たばこを吸って
時間を潰しているのです。

自らはまったく野呂松人形という
芸術を理解しようとはせず、
その一方で自らの文芸が
後の世に残るかどうか心配する。
大きな矛盾を孕んでいる思索です。

「一般大衆はこのように芸術への
理解などない輩ばかりなのだから、
いずれ自分の小説も
忘れ去られるに違いない」という
予見なのでしょうか。
だとすればあまりにも
大衆を見下しすぎています。

不安や諦めなのか、
大衆への侮りなのか、
それとも別の何かなのか、
私にはよくわかりませんでしたが、
そうした芥川の思いとは別に、
彼の作品は執筆から百年経った現在でも
まだ生き続けています。
ただし、本作品をはじめとして
いくつかの作品(「孤独地獄」
「青年と死」など)は、
やはり「その製作の場所と時代とを
知」らなければ、
その真の価値に接近することが
できないのですが。

(2021.4.6)

Christine SponchiaによるPixabayからの画像

【青空文庫】
「野呂松人形」(芥川龍之介)

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