暗い時代に多様性を失わなかった日本文学
「日本文学100年の名作第3巻
三月の第四日曜」新潮文庫
「猫町 萩原朔太郎」
詩人の「私」は、散歩の途中で
方角が分からなくなり、
近所の町でさえ
見知らぬ場所に感じる経験を
度々してしまう。
「三半規管の喪失」である。
ある日、Kという温泉に行き、
またもや方位不覚に陥る。
そのとき目の前に現れた町は…。
日本文学100年の名作第3巻の
再読が完了しました。
ここで取り上げられているのは
1934年から1943年にかけて
発表された13作品です。
日本が戦争に突入した十年なのです。
「一の酉 武田麟太郎」
おしげは店の主人と
間違いを犯してしまうが、
いつしか愛しいと
思い始めていた。
誰も知らないと
思っていたのだが、
主人の妹・おきよが
それを知っていた。
義姉を快く思わないおきよは、
兄との仲を取り持つと
おしげにもちかける…。
「仇討禁止令 菊池寛」
幕末の高松藩。
勤王恭順を説く一派は
家老を暗殺し、
出兵中止に追い込む。
家老を斬ったのは、
家老の娘と許嫁にあった
天野新一郎であった。
数年後、頼母の娘お八重と
嫡男万の助が
仇討ちを望んでいると聞き、
新一郎は戸惑う…。
探偵小説や怪奇小説といった
耽美的な作品の多い第1巻、
多種多様な文学の世界が
開花した第2巻に比べると、
この第3巻には、
迫り来る戦争が暗い影を
落としたような作品が目立ちます。
文学は、
時代を如実に映し出しているのです。
「玄関風呂 尾崎一雄」
ある日、妻が三円よこせという。
そのわけを尋ねると、
風呂桶を買うのだという。
翌日それを買ったはいいが、
その設置場所を思案した結果、
とりあえず
玄関に置くことになった。
つまり玄関で風呂を
立てることとなったのである…。
「マルスの歌 石川淳」
「わたし」の部屋に入ってきて
泣き出した従妹の帯子。
訳を聞くと、
姉の冬子が死んだのだという。
冬子・帯子姉妹は
性格が対照的な二人だった。
「わたし」は帯子とともに
冬子の葬儀に赴くが、
その席上、
夫の三治に召集令状が届く…。
反戦のメッセージが
色濃く表れているのは
石川淳の「マルスの歌」や
宮本百合子の「三月の第四日曜」です。
また、時代小説の衣を被っているものの
菊池寛の「仇討禁止令」や
海音寺潮五郎の「唐薯武士」からも
そうした反戦色が感じられます。
「厚物咲 中山義秀」
吝嗇家の片野は菊の栽培について
人並み外れた腕を持っていた。
若い頃からの友人・瀬谷は、
その秘密が気になり、
片野の家に押しかける。
だが、その陋屋の中で
片野は縊死しており、
傍らには見事な菊の厚物咲が
横たわっていた…。
「幻談 幸田露伴」
二日続けて
あたりの出なかった釣り客は、
終いには竿まで
失う羽目になってしまう。
その帰途、客と船頭は
海面から細長いものが
上下するのを見つける。
近づいてみると
それは上物の釣竿だった。
その釣竿を
引き上げようとすると…。
しかしそうした中にあって、
日本文学は決して
多様性を失ってはいません。
幻想文学の流れを汲んだ
萩原朔太郎「猫町」、
幸田露伴「幻談」、
「食」を題材にした
岡本かの子「鮨」、
矢田津世子「茶粥の記」、
南洋の異文化を紹介する
中島敦「夫婦」、
重厚な主題を扱った
中山義秀「厚物咲」。
暗い世相の中でも、
日本文学はこれだけ色とりどりの
花を咲かせていたのです。
「鮨 岡本かの子」
「福ずし」にときどき訪れる
五十過ぎの紳士・湊は、
いつからか
「先生」と呼ばれていた。
店の看板娘・ともよは、
湊のことが気になっていた。
ある日、町で偶然、
湊に出会ったともよは
彼に問いかける。
「あなた、お鮨、
本当にお好きなの」…。
「裸木 川崎長太郎」
芸者・君栄は、
世話をしたいという
青木の申し出を
承知することになる。
君栄が一枚看板となっている
芸者家福住が営業停止の
罰を食らったからだった。
ただ、同じように親しくしている
大野がどう思うか、
君栄には気がかりだった…。
そして人間の強さ、しぶとさ、
たくましさを描いた作品が多いのも
特徴でしょうか。
武田麟太郎は「一の酉」の中で、
市井の人々の強さを描いています。
尾崎一雄の「玄関風呂」の一家も
大らかでたくましい限りです。
川崎長太郎の「裸木」には
一人の女性の気丈な生き方が
綴られています。
「唐薯武士 海音寺潮五郎」
軍に加わって
戦争に行くという隼太を、
敏也は笑い飛ばす。
隼太は十五にはなるが、
背も低いし痩せて力も弱い。
みすぼらしい家に
たった一人で住んでいる
少年なのだった。
敏也がそれを家で話すと、
父は静かにたしなめる…。
「三月の第四日曜 宮本百合子」
女工のサイは、
就職のために上京してくる弟を
早朝の上野駅で迎える。
上京後一度も帰郷していない
サイにとっては、
三年ぶりに会う弟である。
教員に引率され、
大勢の子どもたちが
列車から降りてくる。
その中に弟の勇吉はいた…。
創作が制限を受けていたこの時代に、
これだけの作品が書かれていたのです。
現在、書店の棚に
その名を見かけなくなった作家も
多いのですが、
ここに収められている作品群は、
その輝きをまったく失っていません。
「茶粥の記 矢田津世子」
亡くなった良人は、
雑誌に寄稿するほどの
食通として知られている。
同僚たちは良人と
美食談義をしては、
空想の中でまだ知らぬ味わいに
舌鼓を打っている。
しかし、良人は実はその多くを、
実際に食したことは
なかったのだった…。
「夫婦 中島敦」
コシサンの妻エビルは
すこぶる多情で、
部落の男と
いつも浮き名を流している。
その一方で彼女は
大の嫉妬家でもあった。
夫の目線の先にある女に
戦いを挑み、勝利する。
ある日コシサンは
美しい女性リメイと出会い、
恋仲となる…。
やはり記念碑的なアンソロジーです。
新潮文庫の「日本文学100年の名作」
全10巻。
絶版になる前に、
ぜひ揃えておきたいシリーズです。
(2021.4.8)