本に残る「だれか」の「痕跡」
「だれか」(角田光代)
(「さがしもの」)新潮文庫
海外旅行中の「私」は、
タイの小さな島で
マラリアに罹る。
寝込んでいる「私」は、
バンガローにあった
日本の文庫本を一日中読んだ。
物語ではなく
文字を見ていた「私」は、
この片岡義男の本を
手にしていた「だれか」に
思いを馳せる…。
「本を読むことは対話することである」。
そう誰かが言っていました。
確かに本を読むという行為は、
時空間を飛び越えて
作者の思いを受け止め、
そこにそれまでの自分の経験や思想を
重ね合わせることにより、
自らの思いを作者へと返している
感覚を感じることが
往々にしてあります。
角田光代は、それだけでなく
「その本の以前の所有者たち」とも
つながることができると
説いているのです。
「解読可能な
見知った文字の合間から、
知らないだれかが浮かび上がる。
この本を通過していった
無数のだれかだった。」
古書にはその所有者の「痕跡」が
何らかの形で残ります。
本作品の場合、
「片岡義男の文庫本」には
「タイの小さな島に残された」という
淡い「痕跡」が残っていたのです。
「私」は、「空想した男」が必然的に
「片岡義男の文庫本」に出会ったと
考えます。そして
その情景を詳しく思い描くのです。
失恋した若い男性が、
傷心を癒やすために
南の島へ旅行を決意する。
その旅の同伴者として
「片岡義男の文庫本」を
選んだに違いないと。
私たちの身のまわりでも、多くの場合、
古書には所有者の「痕跡」が
残されているものです。
余白の走り書きや
本文中のアンダーライン、
蔵書印など明確なものだけでなく、
開き癖、すれ、汚れ、折れ、
黄ばみ等も含めて、
所有者の何かを反映しているのです。
全国展開の古書ストアが各地にあり、
ネットオークションも一般的になり、
ネットショップでも新刊本と並行して
古書も販売する昨今、
以前とは比べものにならないくらい
古書と接する機会が増えました。
本は、かつて以上に
人と人との間を流れていきます。
私たちが今読んでいる本は、
かつて「だれか」が涙した本であり、
いつか「だれか」が癒やされる本でも
あるのです。
本は、確実に
人類の共有財産となりつつあります。
とりとめのないことを
書き綴ってしまいました。
本が人と人を繋ぐ存在であることを
願っています。
※昭和50年代だったでしょうか、
本屋の書棚には
片岡義男の角川文庫の赤い背表紙が
並んでいました。
その頃の角川文庫の背表紙は、
「片岡義男の赤」だけでなく、
「横溝正史の黒」「森村誠一の紺」
「小松左京の濃緑」「眉村卓の薄緑」
「高木彬光の黄土色」等、
多士済々といった感が
あったのですが、現在の
角川文庫のそれは没個性化していて、
残念な限りです。
(2021.5.8)