本がその人の一部となる
「彼と私の本棚」(角田光代)
(「さがしもの」)新潮文庫
恋人のハナケンと
別れることになった「私」は、
一緒に暮らしていた部屋から
引っ越すことになる。
「別れる」ことは、
部屋から自分のものを
「分ける」ことでもあった。
「私」は本棚から
自分の本を分けるのに苦労する。
そして考える…。
同棲していた若い男女の
別れ際の物語ですが、
恋愛事情は問題ではありません。
本なのです。
二人は本好き。
お互いに買って
お互いに読み合った本が数多くあり、
それらを「分ける」作業が進
展しないのです。
例えばそれぞれが買った同じ本。
同じ痛み方であり、
今後読む可能性が低いのであれば、
どちらを持っていっても
良さそうなものですが、
「私が持ち込んだものは
私が持ち去りたいし、
ハナケンが持ち込んだものは
ハナケンに持っていてほしいのだ」。
その根底にあるのは、
本にしみこんだ人間の気配は
消せないということなのだと思います。
先日取り上げた「だれか」は、
古書に残る所有者の「痕跡」が
テーマでしたが、それと似ています。
以前からほしいと思っていた
ハナケンの本を、
「この本を引っ越し先に
持っていくということは、
ハナケンの気配を
持っていくということと
おんなじことだ。
いつか私は
その気配に戸惑うだろう。
だから置いていく。
読みたくなったら、
新しく買えばいい」。
本には、もしかしたら
着るものや使うもの以上に、
読む人の気配が
色濃く残るものなのでしょう。
いや、その人の気配が
本に残るのではなく、
本がその人の一部となっているのかも
知れません。
そして一緒に生活することは、
自分と相手がいろいろなものを
共有することです。
したがって「私」にとって
ハナケンの本は、
彼の一部でありながら同時に
私を構成する要素の一つでも
あったのでしょう。だから
「分ける」のに苦労しているのです。
そして悲嘆に暮れているのです。
「記憶も本もごちゃまぜになって
一体化しているのに、
それを無理矢理
引き離すようなこと。
すでに自分の一部になったものを
ひっぺがし、
永遠に失うようなこと」。
本が、失ったものを
目に見える形で突きつけているのが、
なんともいえない
悲しみを感じさせます。
「本の抜け落ちた本棚が、
同じ本で埋められることは
もうないだろう。
ハナケンのあの立派な本棚も
同じことだ」。
しかし、「私」を立ち直らせるのも、
また本であるのかも知れません。
「私」の本棚の空いた空間に、
次はどんな本が
埋められていくのだろう。
そんな期待を持たせて
物語は幕を閉じます。
「明日、新しい本棚を買いにいこう。
カーテンよりもベッドよりも先に」。
(2021.5.15)