「落穂拾い」(小山清)

つながりは濃厚なものである必要はない

「落穂拾い」(小山清)
(「日本文学100年の名作第4巻」)
 新潮文庫

僕は武蔵野市の
片隅に住んでいる。
僕の一日なんておよそ
所在ないものである。
本を読んだりしているうちに、
日が暮れてしまう。
散歩の途中で
野菊の咲いているのを
見かけたりすると、
ほっとして重荷の下りたような
気持になる…。

筋書きを書くのが困難で、
途中の一節を提示しました。
随筆のようでもあり
日記のようでもある私小説です。
書かれてあることは大きく三つ。
一つは友人Fから届いた手紙について、
一つは近所の芋屋のお婆さんについて、
もう一つは
駅の近くの古本屋を営んでいる
少女について。
淡々とした文章が続くだけです。

Fは、「ぼく」がかつて働いていた
炭鉱での仲間の一人です。
しかしその関係は
決して濃密ではありません。
「稼いだらまた東京に
 帰ってきましょうね。
 F君のそのなにげない言葉が、
 そのときの僕の
 結ぼれていた気持を、
 どんなに解き放してくれたことか」

手紙も極めて淡泊です。
「私たちも元気です。と
 それだけしか書いてない」

お婆さんとの関わりも同様です。
多くの言葉を交わすわけでもなく、
時間だけが流れていくような間柄です。
「お婆さんが僕に
 世間話をしかけることもない。
 僕もまた黙っている。
 ただ芋を食って
 お茶を呑んでくるだけである」

それでも古本屋の少女とだけは
少しだけ距離が
近くなっているのでしょうか。
「僕」は少女に自分が
売れない作家であることを明かし、
少女も「僕」の作品の載った
雑誌を探します。
そして「僕」の誕生日に
ささやかな贈り物をするのです。
「あけると中から
 耳かきと爪きりが出てきた。
 なるほど。僕にはそれが
 とても気のきいた贈物に思えた。
 金目のものでないだけに一層」

一読すると、
「僕」の孤独な面ばかりが
強く感じられるかも知れません。
「僕は一日中誰とも言葉を交さずに
 しまうことがある。」
という
一文もあるくらいです。
ネットで多くの人と「繋がっている」
現代の若い人からすれば、
そこに「暗さ」を感じてしまうかも
知れません。

しかし、咀嚼するように
丁寧に本作品を味わうならば、
「暗さ」ではなく「温かさ」が
感じられるはずです。
慎ましい生活を送っている
「僕」にとって、
周囲とのつながりは
決して濃厚なものである必要など
ないのでしょう。
「誰かに贈物をするような心で
 書けたらなあ」

寡欲な作家・小山清の人柄が
滲み出たような、
味わいのある作品です。

コロナ渦にあって、昨年に引き続き、
今年も各地に
非常事態宣言が出された中での
ゴールデン・ウイークとなりました。
「我慢できない」といって
行楽に出かける方々の気持ちも
十分に理解できるのですが、
本作品の「僕」のような価値観も、
現代の世の中には必要ではないかと
感じた次第です。

(2021.5.16)

FelixMittermeierによるPixabayからの画像

【青空文庫】
「落穂拾い」(小山清)

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