刺さったきりとれない棘のよう
「第六七二夜の物語」
(ホーフマンスタール)
(「百年文庫023 鍵」)ポプラ社
4人の召使いだけを住まわせ、
孤独な生活を送る若い富豪。
ある日、彼のもとへ匿名で、
彼の下男が
犯罪を犯したことを告げる
脅迫的な手紙が届く。
下男を失うことに
不安を感じた彼は、
召使いたちには知らせず、
単身町に出かけ…。
「信頼している下男を
あらぬ罪で侮辱され、
その究明に立ち上がる主人」となると、
いかにも人間的な英雄ですが、
この若い富豪は
決してそうではありません。
彼にとって4人の召使いは
自分の所有物であり、
自分の世界を構成する
「もの」の一部なのです。
彼の怒りと不安は、
自分の自慢のコレクションを失うことに
耐えかねてのことなのです。
そもそも彼はどんな人間か?
作品冒頭には、
「非常に美男」「二十五」
「社交生活にも饗宴にも、
すっかり飽いて」とあります。
また「女の美しさのとりこになって、
そういう女をいつも身辺に
はべらせて置くことを望ましいと
思ったこともなかった」ともあります。
だからといって
人間嫌いでもないのです。
作品前半部は観念的な文章が
延々と続き、
彼の人となりが示されていくのですが、
つまるところは「他人をものと
同一視する」傾向があり、
「狭い自分の世界を大切にし、
その中で生きる」若者ということに
なりそうです。
当然、その狭い「世界」の中にいる限り、
彼はこの上ない幸福を感じています。
彼は陰鬱な諺を口に出して諳んじても、
まったく不安を感じなかったのです。
そんな彼が
町に出かけた(といっても、
別荘を出て自分の本宅周辺へ
戻っただけですが)のですから、
何かが起きて当然です。
作品後半部は一転して
暗い予感に包まれる描写の連続の末、
彼は命を落とします。
死への過程の中、彼の脳裏には、
行き先の選択する際に想起した
4人の召使いたちの顔が
浮かび上がります。
薄れゆく意識の中で彼は
「自分を死に追いやった
召使いたちを呪った」。
そして自らの人生を全否定するのです。
さて、前半部で彼が口に出した
陰鬱な諺とは、
「汝の死すべき所へ、
汝を汝の足が運んでゆくであろう」。
その諺が現実のものとなったのです。
ホーフマンスタールの描いた
この作品が、
単純に特殊な若者の
数奇な人生を描いたものなのか、
それとも人間社会の
何かを暗喩した寓話的作品なのか、
もしくはそのどちらでもなく
情念の流れだけを
書き連ねた散文なのか、
あるいはまったく別の何かなのか。
浅学な私には一向にわかりません。
しかし、刺さったきり
とれない棘のように、
私の心には残っています。
(2021.5.18)