「不幸の種」(角田光代)

本は、自らを映し出す鏡

「不幸の種」(角田光代)
(「さがしもの」)新潮文庫

好きだった「彼」が
友人・みなみと付き合い始め、
「私」は失恋した。
以来「私」は
次々と不幸に襲われる。
占い師に占ってもらったところ、
不幸の種は
部屋の中にあるという。
「私」は一冊の本に思い当たる。
その本は「彼」が読んでいた…。

その本が不幸をもたらすと
考えていた「私」は、
本を「彼」に引き取ってもらおうと、
みなみに手渡すのです。
大学卒業後に再開したみなみは
災難の連続であることを知り、
「私」は不幸の種であるその「本」が、
まだ彼女の手元にあることを
確信します。
しかしみなみは「私」に言い放ちます。
「私にしてみれば
 そんなに不幸じゃないのよね」

なんと彼女は
その本を愛読していたのです。
難解な内容のその本を、
「二十二歳で読み返したら、
 書かれていることが
 少し、わかったの。
 二十四歳で読み返したら、
 またもう少しわかった。
 二十五歳で読み返したときは、
 ある箇所で心から泣いちゃった」

本が読み手に語りかける内容は、
その時々で変化します。
二十代で読んだ本が、
三十代、四十代、五十代で
読み返したときに、
まったく違う顔を見せることも
しばしばあります。
それは本が変化したのではありません。
読み手の心が変容しているからです。
生きていく中でいろいろな経験を
積み重ねた読み手の心は、
その本に書かれてあることの、
より多くを汲み出すことが
できるようになるのでしょう。
それが「本」に対する
作者・角田光代のスタンスであり、
それは本書に収録されている
「旅する本」にも現れています。
「かわっているのは本ではなくて、
 私自身なのだ」
(「旅する本」)

みなみは自分の身に起きた
失恋も転職も、
不幸とは捉えていません。
人生の糧として受け止めているのです。
だからこそ彼女の心は成長し、
その本を理解できるように
なっていったのでしょう。

「私」は再びみなみから
その本を譲り受け、
その本と向き合って過ごします。
「この本は、
 年を経るごとに意味が変わる。
 一年前にはわからなかったことが
 理解できると、
 私ははたと思い知る。
 自分が今もゆっくりと
 成長を続けていると、
 知ることができるのだ」

本は、自らを映し出す
鏡のようなものかも知れません。
それも自分の外見ではなく、
普段気付くことのない
自分の心の有り様を、
ものの見事に
目の前に差し出してくるのです。
それは読書の楽しみであり、
一つの本を再読することの
理由なのでしょう。
中学生高校生に薦めたい一篇です。

(2021.5.22)

Joseph Redfield NinoによるPixabayからの画像

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