「新しい世界」へ抜け出すための「鍵」
「百年文庫023 鍵」ポプラ社
「塀についたドア H・G・ウェルズ」
若き有能な政治家・ウォーレスは、
ある晩「わたし」に
「塀についたドア」の話をした。
それは幻想的・非現実的であり、
到底信じることなど
できないものだったが、
彼はそれを真実と信じていると
「わたし」は確信する。
その「ドア」とは…。
百年文庫第23巻のテーマは「鍵」。
三作品を、
この「鍵」というテーマで読み解くのには
苦労しました。
ウエルズの作品は、
ドアは登場するものの、
「鍵」を必要とする場面は
見当たらないのです。
このドアは常に存在するものではなく、
何かの条件、
それもそれを必要とする人間の
精神的な条件が揃ったときに
現れるものと考えられます。
つまり、
ここではドアを開ける「鍵」ではなく、
ドアが現れる
「鍵」ということなのでしょう。
「わかれ シュニッツラー」
アルベルトは意を決して
愛人・アンナの家へと向かった。
二人は三ヶ月ばかり
逢瀬を重ねていたが、
彼女はここ数日、
彼のもとを訪れてはいなかった。
重い病に罹っているのだという。
アルベルトは女中から
彼女の死を告げられる…。
シュニッツラー作品での「鍵」は
さらに不明です。
アルベルトはいてもたってもいられず、
愛人・アンナの家の前まで
駆けつけるのですが、
そこで鍵のかかったドアに
阻まれてなどいないのです。
この「わかれ」が、
単なる愛人との「わかれ」ではく、
「幸福に見えて不幸だった
三ヶ月との別離」、
もしくは「独りよがりである
自分との決別」だとすると、
新しい世界への「鍵」とでも
解釈すべきなのでしょうか。
「第六七二夜の物語」
(ホーフマンスタール)
4人の召使いだけを住まわせ、
孤独な生活を送る若い富豪。
ある日、彼のもとへ匿名で、
彼の下男が
犯罪を犯したことを告げる
脅迫的な手紙が届く。
下男を失うことに
不安を感じた彼は、
召使いたちには知らせず、
単身町に出かけ…。
本作品にだけは「鍵」が登場します。
別荘から町へ戻ったとき、
自宅には「鍵」がかかっていたので
入ることができずホテルに泊まった、
という件があるのですが、
それを表しているとすれば
あまりにも単純です。
こちらもまた「汝の死すべき所」へ
通じていた「鍵」という
発想なのでしょうか。
三作品とも、
主人公が「新しい世界」へ
抜け出したところで結末を迎えます。
それは決して幸せでもなく
明るくもない世界ですが、
その入り口には確かにドアがあり、
「鍵」となるべきものが存在していたと
考えるべきなのでしょう。
それぞれを著した三人の作家たちも、
「新しい世界」の扉を開けたような
人物ばかりです。
H・G・ウエルズは、
「モロー博士の島」「透明人間」
「宇宙戦争」などの作品で、
古典的SFの地平を切り開いた作家です。
シュニッツラーと
ホーフマンスタールは、
ともにオーストリアの作家であり、
ウイーン世紀末文化の旗手として
活躍した作家たちです。
さて、できれば本作品のような
暗い結末にいたる「鍵」ではなく、
明るく爽やかな世界を開く
「鍵」が欲しいものです。
コロナ渦にあって
なおさらそう思います。
(2021.5.27)