「塩山再訪」(辻原登)

次第に大きくなる、言いようのない不安な感情

「塩山再訪」(辻原登)
(「日本文学100年の名作第9巻」)
 新潮文庫

「日本文学100年の名作第9巻」新潮文庫

恋人の有子を連れて故郷の塩山に
三十年ぶりに
戻った「私」だったが、
有子は不機嫌な顔をする。
二人が入った小さなバーの
バーテンダーの男は、
同級生の堀だった。
堀は「私」を覚えていた。
「私」は何かが記憶の底で
動くのを感じる…。

筋書きに大きな起伏はありません。
しかし言いようのない不安な感情が
「私」から読み手へと伝染し、
それは終末に向けて
次第に大きくなっていきます。
そして最後の2ページで、
「私」が呼び覚ました
過去の重大な記憶が、
一瞬にして物語の舞台を
凍りつかせるのです。

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二人は若くはありません。
冒頭部分ではまるで不倫関係に
あるような描写が続きますが、
「私」も有子もパートナーを亡くし、
ともに独身、普通の恋人関係でしょう。
しかし
しっくりいかない「何か」があるのです。
だから不倫関係にあるような錯覚を
持ってしまうのでしょう。

その「しっくりいかない」原因こそが、
最終場面への伏線であり、
「私」が三十年前に起こした
「過ち」であり、
現在もなお犯し続けている
「間違い」なのです。

「文章、おれが直してやるよ」
「つれてってやるのさ」
「許してやるよ」
「この女と結婚してやろう」
「夜の塩山を案内してやるよ」
「してやるよ」
「教えてやろうか」

書き抜いた「私」の台詞と思考を並べると
一目瞭然でしょう。
「私」は知らず知らずのうちに
周囲の人間を見下していたのです。
では「私」はなぜそのような人間に?

彼は
小学校時代は「よい子」だったのです。
教師の息子であるために
意図的にそう振る舞ってきたのです。
それが結果として
児童会会長に選ばれるほどの
「よい子」になったのです。
しかし父親の死によって故郷を離れ、
貧困のために住み込みで働きながら
定時制高校に通い、
しがない印刷屋を経営する
半生を送ってきたのです。
ふるさとで抱いていた夢や希望を
すべて捨て去ったにもかかわらず、
「尊大さ」だけは手放さずにいた
「私」の在り方は、
読み手に痛々しささえ感じさせます。

三十年ぶりに戻った「故郷」は、
しかし「私」を決して
温かくは迎えていないのです。
「坂が本性を現したのだ。
 のぼらなければよかったんだと
 人はいうかもしれないが、
 いったん坂をのぼりはじめたら
 途中で引き返すなんて
 できない相談だ。」

特に事件が起きるわけでもないのに、
終末における緊迫感は
ただ事ではありません。
秀逸な人物設定と描写、
張り巡らされた伏線とその一括回収、
湧き上がるサスペンス、
破綻と喪失の予感、
短篇を読む面白さが凝縮されています。
とんでもない短篇に
出会うことができました。
辻原登、注目していきたいと思います。

〔本書収録作品一覧〕
1994|塩山再訪 辻原登
1995|梅の蕾 吉村昭
1996|ラブ・レター 浅田次郎
1997|年賀状 林真理子
1997|望潮 村田喜代子
1997|初天神 津村節子
1997|さやさや 川上弘美
1998|ホーム・パーティー 新津きよみ
1999|セッちゃん 重松清
1999|アイロンのある風景 村上春樹
2000|田所さん 吉本ばなな
2000| 山本文緒
2001|一角獣 小池真理子
2001|清水夫妻 江國香織
2003|ピラニア 堀江敏幸
2003|散り花 乙川優三郎

(2021.6.13)

StockSnapによるPixabayからの画像

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