「落ちる」(多岐川恭)

一体何が「落ちる」のか?

「落ちる」(多岐川恭)
(「落ちる/黒い木の葉」)ちくま文庫

自殺衝動ともいえる
ひどい神経衰弱に陥っていた
「おれ」は、久しぶりに
妻・佐久子と外出する。
だが、二人を尾行していたのは、
「おれ」の主治医・長峰だった。
「おれ」は
妻と長峰との関係を疑っていた。
長峰が「おれ」に話した
真相とは…。

こんなスリリングなミステリが
存在していたなんて。
乱歩横溝といった
巨人の作品にばかり夢中になっていて、
他の作家たちの傑作に
気づきませんでした。
多岐川恭(1920-1974)。
「濡れた心」で江戸川乱歩賞、
本作「落ちる」で直木賞を受賞、
それ以降、
長編短篇に優れた作品を残しました。
本作品も、
そのスリル、その切れ味、
その展開の意外性、
どれをとっても極上です。
さて、「落ちる」とは、
一体何が「落ちる」のか?

【主要登場人物】
「おれ」
…自殺願望の神経衰弱で引きこもる。
 資産あり。
佐久子
…「おれ」の妻。美貌で精力的。
長峰
…「おれ」の主治医。
 若い頃は佐久子の家の書生。

本作品の読みどころ①
長峰に湧き上がる「おれ」の疑念

「おれ」は元来、
生きる力に乏しい人間だったのですが、
ふとしたことから
佐久子との縁談を紹介され、
その美貌と肉体に魅了される形で
生きながらえてきたのです。
妻は自分よりも
長峰を求めているのでは?
そんな疑念を拭えない中、
鉄橋を歩いていた二人を、
背後から長峰が突き飛ばすのです。
長峰の話す「真相」に、
「おれ」は戸惑います。
長峰は自分を殺そうとしたのか、
それとも妻に殺されようとしている
自分を救ったのか?
一人称で語られる「疑念」は、
読み手に自らの恐怖として
伝わってきます。

本作品の読みどころ②
佐久子にすがる「おれ」の脆い精神

すべては佐久子によって
生かされているような「おれ」です。
佐久子の美しさと
エネルギッシュな肉体に魅了され、
「おれ」はそこから離れられないのです。
病はまだまだ
完治していないにもかかわらず、
「おれ」は佐久子を安心させたいという
一心で外出に同意し、
そこに危機が訪れるのです。
佐久子に依存する「精神」は、
読み手に自らの心の孤独として
印象づけられます。

本作品の読みどころ③
最後に変身する「おれ」

そうしたすべてのお膳立てが
でき上がってから、
物語は最後の山場を迎えます。
そして「おれ」は大きな変身を遂げ、
作品もまたミステリとしての
完成を見るのです。
結末こそ本作品のすべてです。
ぜひ読んで確かめてください。

表題の「落ちる」は、
自殺願望者の転落死でもなく、
巧妙に仕掛けられた
罠への滑落でもなく、
いわば「憑きもの」が「落ちた」とでも
形容できるものでした。
忘れられつつあるミステリの傑作短篇。
いかがでしょうか。

※ミステリ作家・多岐川恭の力量も
 さることながら、
 アンソロジスト・日下三蔵の
 センスの高さが映える作品集です。
 日下三蔵編のちくま文庫は
 見逃せません。

(2021.6.16)

LayersによるPixabayからの画像

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