問題になるのは終末部の妻の描写です。
「火星の運河」(江戸川乱歩)
(「江戸川乱歩全集第3巻」)光文社文庫
又あすこへ来たなという、
寒い様な魅力が私を戦かせた。
にぶ色の暗が
私の全世界を覆いつくしていた。
恐らくは音も匂も、
触覚さえもが私の身体から
蒸発して了って、
煉羊羹の濃かに澱んだ
色彩ばかりが、
私のまわりを包んで…。
いつものように
粗筋紹介を試みたのですが…、
作品の冒頭部をそのまま引用しました。
筋書きらしいものが
見当たらないからです。
文庫本にしてわずか8頁。
江戸川乱歩の短篇作品です。
「火星の運河」という表題だけをみると、
まるで小松左京か光瀬龍あたりの
SF作品を想起させます。
しかも主人公はどこともしれぬ
暗闇の森の中をひたすらさまよい歩く。
現実世界のものではありません。
雰囲気の重いファンタジー小説のような
書き出しから始まります。
それが途中から、
乱歩らしさが現れます。
何気なく自身の身体を見渡した「私」は、
それが女性のもの、
しかも恋人の美しい身体であることを
発見するのです。
当然、妖艶な表現が続き、
乱歩世界その1「エロ」が
構築されていくのです。
「ぬれ鬘の如く、
豊にたくましき黒髪、
アラビヤ馬に似て、
精悍にはり切った五体、
蛇の腹の様につややかに、
青白き皮膚の色、
私という女王の前に、
彼等がどの様な有様で
ひれ俯したか。」
そうこうしているうち、
「私」はその世界に足りない「色」、
つまり鮮やかな血の色彩を求めます。
そして全身に
縦横無尽のかき傷を拵えて、
自らの鮮血をもって世界を彩るのです。
その結果として、
乱歩世界その2「グロ」が
積み重ねられていくのです。
「火星の運河(!)私の身体は
丁度あの気味悪い火星の運河だ。
そこには水の代りに
赤い血のりが流れている。」
乱歩のエログロ世界が
完成するとともに、
筋書きは急転直下、
舞台は現実世界へと戻ります。
いわゆる「夢落ち」というものです。
「彼女の頬は、入日時の山脈の様に、
くっきりと蔭と日向に別れて、
その分れ目を、
白髪の様な長いむく毛が、
銀色に縁取っていた。
小鼻の脇に、
綺麗な脂の玉が光って、
それを吹き出した毛穴共が、
まるで洞穴の様に、
いとも艶しく息づいていた。」
本作品は探偵小説では
もちろんありませんが、
SFでもファンタジーでもなく、
散文詩のようなものなのです。
しかしそこに乱歩の世界が
凝縮されているのも確かです。
さて、ここで問題になるのは
終末部の妻の描写です。
決して美しさを
感じさせるものではありません。
では、作中に登場する、
美しい身体の「恋人」と妻は
同一ではないのか?
妻帯しながら「私」には
美しい愛人が存在しているのか?
本作品はもしかしたら
そんなことを「推理する」
探偵小説なのかもしれません。
(2021.6.29)
【青空文庫】
「火星の運河」(江戸川乱歩)
※本書「江戸川乱歩全集第3巻」
収録作品の記事です。
※乱歩の本はいかがですか。