「世間」「空気」という名の恐ろしい魔物
「補陀洛渡海記」(井上靖)
(「日本文学100年の名作第5巻」)
新潮文庫
熊野浜ノ宮海岸補陀落寺の住職
金光坊は気が重かった。
今年は自分が補陀洛渡海の年に
あたるからであった。
補陀洛渡海とは、僧を
脱出不能の小箱付の小舟に乗せ、
生きたまま海に流すという
捨身行である。
いよいよその日になり…。
井上靖の魅力の一つは、
「あすなろ物語」「晩夏」に
代表されるような
自伝的要素を盛り込んだ
青少年の物語なのですが、
もう一つは歴史を題材とした
作品でしょう。
「天平の甍」「敦煌」「風林火山」などが
有名なのですが、
今日取り上げるのは短篇の本作品。
歴史的事実を踏まえ、
そこから物語を紡ぎ出しています。
補陀洛渡海とは
実際に行われていた宗教儀式です。
死んで仏に仕えるというのですから、
余程信仰心が
強くなければならないのですが、
実際には強制的に行われた形跡も
あったようです。
そして主人公の金光坊も
実在した可能性の高い人物です。
金光坊は渡海したものの
途中で命が惜しくなり、
船から逃げだして小島に上陸。
役人はこれを認めず
金光坊を海に突き落として
殺してしまった。
これが伝えられている事件の
あらましです。
井上靖はここに注目し、
金光坊の精神状態を
克明に創造していったのです。
金光坊以前の住職三代が
すべて六十一歳の十一月に
渡海していたため、
金光坊自身には
その気がなかったにもかかわらず、
周囲の人間は、
当然金光坊も渡海するものと
決めてかかっていたわけです。
外を歩けば生き仏のように拝まれる、
賽銭は投げられる。
会う人会う人、
みな渡海の期日を訪ねる。
渡海をしなければならない「空気」が
できあがってしまうのです。
いかにも日本的で、
「ありがち」な流れです。
もしかしたら、事実も本作品と
あまり相違ないのかも知れません。
「世間」が勝手に盛り上がり、
「空気」が勝手に期待感を高め、
その期待が満たされないことがわかると
一斉に糾弾を始める。
「世間」「空気」という名の
恐ろしい魔物がここにも潜んでいます。
山本七平の名著「空気の研究」
さながらです。
「世間」「空気」の恐ろしさを
さらに明確にするため、
本作品の結末は
事件とは異なるものとなっています。
ぜひ読んで確かめてください。
歴史物も面白い井上作品。
今後読み進めていきたいと思います。
(2021.7.4)
※井上靖作品の記事です。
※井上靖を読んでみませんか。
※「日本文学100年の名作第5巻」
収録作品の記事です。
※山本七平「「空気」の研究」です。