谷崎にとっての「母親像」は、一般的なそれとは異なる
「母を恋ふる記」(谷崎潤一郎)
(「潤一郎ラビリンスⅤ」)中公文庫
「母を恋ふる記」(谷崎潤一郎)
(「刺青・秘密」)新潮文庫
月夜の街道を歩いていた「私」は
家灯りを見つける。
そこで炊事をしていた女性を、
「私」は自分の母親に違いないと
確信するるが、
それは人違いであった。
なおも街道を歩き続ける
「私」の前に、
今度は一人の若い女性が
浮かび上がる…。
月夜の松並木の道を、
わけもなく歩いている一人の少年。
まるで怪談のような舞台設定ですが、
谷崎潤一郎の書いた幻想小説です。
六つか七つの「私」は、
二人の女性と出会います。
一人は一軒家に住む、
息子の帰宅を待ちわびる女性。
「私」はその女性を「お媼(ばあ)さん」と
呼びかけるのですが、女性は
「私」の母親ではありませんでした。
もう一人はその後の夜道で出会った
若い女性。
「私」は「小母(おば)さん」と
呼んだあとに「姉さん」と言い直します。
こちらこそが「私」の母親だったのです。
さて、この二人の
描出のされ方をみてみると
面白いことが見えてきます。
一人目の女性。
「ぶくぶくと綿の這入った
汚れた木綿の二子の上に、
ぼろぼろになった藍微塵の
ちゃんちゃんを着ている」
「いつの間にこんな田舎の
お媼さんになってしまった」
「頬にも額にも深い皺が寄って、
もうすっかり
耄碌してしまったらしい」
散々な描かれようです。
二人目の女性。
「色の白さが際だって」
「その頤(あご)は花びらのように
小さく愛らしい」
「唇には紅が
こってりとさされている」
そのほかにも書かれている
彼女の描写を総合すると、
細身で長身、小顔で色白、
目はやや細いものの鼻高く唇厚く、
涼しげでありながらも
妖艶な若い美女という姿が
像を結びます。
最後に、やはり夢であったこと、
さらには「私」は三十四歳、
母親はすでに他界していることが
明かされます。
現実の「私」から考えると、
一人目の女性こそが
その母親像として適しているのは
明らかです。
しかし二人目の女性がその母親像として
合致するかといえば
そうではないでしょう。
あまりに若すぎます。
実際、夢の中の「私」は、
彼女のその若さゆえ、
顔を見ても母親とは
気づかなかったくらいですから。
おそらく
ここで描かれている「母親像」は、
現実のものでないだけでなく、
若い時分の
記憶の中にあるものでもなく、
「私」(=谷崎自身)の理想とする
女性像のことなのでしょう。
先日取り上げた「二人の稚児」でも、
瑠璃光丸の求めた女性は、
「降り積る雪の中に、
それよりも更に真白な、
一塊の雪の精かと
訝しまれるような」
一羽の美しい鳥として描かれています。
谷崎にとって「母親像」は
一般的なそれとは異なり、
「崇高」「永遠の若さ」「純白」
「すべてを受け入れる存在」の
結晶化されたものなのかもしれません。
(2021.7.6)
※本書「潤一郎ラビリンスⅤ」に
収録されている作品です。
※「潤一郎ラビリンス」の記事です。
※中公文庫「潤一郎ラビリンス」は
いかがですか。