「日本語の教室」(大野晋)②

筆者から叱られたような思いがした

「日本語の教室」(大野晋)岩波新書

本書前半を読んで、「私たちはもっと
日本語の素晴らしさ、美しさをこそ
学ぶべきではないのでしょうか。
小学校から英語などを
学ぶこと以前に。」などと
安易に書いてしまいました。
後半を読み進めるうち、
「そんな浅薄なものではないだろう」と、
筆者・大野晋氏から叱られたような
思いがしました。

後半は日本語と日本文明について
述べられています。
大和飛鳥の時代から
連綿と続いた漢文訓読体という文章が、
敗戦後、GHQの指導による
漢字制限により破壊された経緯と、
それがもたらしている
「事実の認識力の低下」という
弊害について、多くの紙面を割いて
解説しているのです。

事実の認識力とは、
物事をじっと見て、
全体像を組織的にとらえることだと
筆者は述べます。
本書が書かれた時点で起きている
いくつかの社会的事件
「大手三銀行合併の際の
コンピュータシステム誤作動」
「BSE問題の政府対応」
「東海村放射能漏れ事故」等は、
すべて起こりうる危機的な事実を
正確に把握しきれなかったことが
遠因としてあることを指摘しています。

私たちがとるべき方向性として
いくつかの方向性を、
筆者は示しています。

「日本人は日本語の問題というと、
 すぐ「美しい日本語」という。
 もちろん、
 美しい日本語も大事です。
 しかし現在の日本にとって
 大切なのは、
 そうした感受に傾いた
 日本語の使い方ではなくて、
 正確な日本語、的確な日本語、
 文意の明瞭に分る日本語を
 日本人一般がもっともっと
 心がけるべきだということです。」

私も常日頃、
美しい日本語を心がけているのですが、
それだけでは不十分であることを
痛感しました。

「たといアメリカが
 没落するときが来たとしても、
 その時までに英語は
 世界の共通語としての位置を
 全世界に確立し、
 その共通語としての
 英語による文献や資料は増大し、
 その力はたやすく衰えたり、
 滅びたりすることは
 起こらないだろう。
 世界に通ずる学問を研究し、
 それを読み、書き、
 意見を交換するには
 英語の能力は必ず要求される。」

日本の義務教育が
英語教育に重点を置く必要は
ないだろうと考えていた
私の視野の狭さを教えられた思いです。

もっともそのあとには
「だからといって、
 英語を「第二公用語」とするという
 論は誤っていると思う」

続くのですが。

まだまだ学ぶべきことが
世の中には数多くある。
そんな当たり前のことを
再確認させてくれる一冊でした。
高校生に薦めたいと思います。

(2021.7.8)

lisa runnelsによるPixabayからの画像

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