「バイオリン弾き」(メルヴィル)

彼の人生は百八十度転換する

「バイオリン弾き」
(メルヴィル/杉浦銀策訳)
(「百年文庫080 冥」)ポプラ社

「百年文庫080 冥」ポプラ社

友人・スタンダードに紹介された
ホートボーイは、
明るい好人物だったが、直前に
悲嘆に暮れていた「ぼく」は、
その男の屈託のなさを軽蔑する。
しかしその日再び会った彼は、
「ぼく」の目の前で
天才的なバイオリンの
腕前を披露し…。

メルヴィルといえば「白鯨」。
大長編で陰鬱、
そして難解な作品であり、
私には縁がないのではないかと
感じていた作家です。
しかし
こんな素敵な短篇があったなんて。

「ぼく」が悲嘆に暮れていたのは、
「ぼくの詩は酷評によって
 地獄にたたき落とされ、
 不滅の名声も
 ぼくとは無縁のものと
 なってしまった!」
からです。
だからサーカスを観て
子どものようにはしゃぐ
ホートボーイの「驚異的な陽気さ」に
はじめは尊敬の念さえ抱くのですが、
最後には「才能を無くした人間」として
一蹴してしまうのです。

しかしホートボーイは
ただ無邪気な人間では
ありませんでした。
見事なバイオリンを奏でるのです。
それは並みの腕前などではなく
「魔術的なバイオリン」だったのです。
それもそのはず、彼は少年期に
「ありとあらゆる栄光を
味わい尽くした」天才的な
バイオリン弾きだったのですから。

名声を棄て、自分の芸術を
心の底から楽しんでいる
壮年期の男・ホートボーイとの邂逅は、
名声を追い求めて挫折したばかりの
生々しい傷を心に負った青年に
大きな影響を与えます。
「ぼく」の人生は
百八十度転換するのです。
ぜひ読んで確かめてください。

さて、作者・メルヴィルについて
調べてみると、
本作品をはじめとするいくつかの
短篇作品を三十代で著した後、
四十歳を過ぎた頃から
詩作を開始するのですが、
作品はすべて酷評され、
文筆で生計を立てることが
困難になるのです。
それどころかあの「白鯨」でさえ、
まったく評価されて
いなかったのですから驚きです。

してみれば、本作品の「ぼく」は
作者そのものといえます。
それと同時にホートボーイもまた、
誰にも評価されずとも
本当の芸術を追い続けた
作者の姿に重なります。
1854年、作者三十五歳の年に
発表された本短篇は、
自身の未来の挫折と真の栄光の、
両方を予見した希有な
作品ということができるでしょう。
「幸福」とはなにか、
考えさせられる極上の逸品です。

(2021.7.19)

Niek VerlaanによるPixabayからの画像

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