「老人」(リルケ)

暗闇に一瞬、温かく優しい光が差し込む

「老人」(リルケ/森鷗外訳)
(「百年文庫033 月」)ポプラ社

ペエテル・ニコラスは
七十五になって、
いろんな事を忘れてしまった。
昔の悲しかった事や
嬉しかった事、それから
週、月、年と云うようなものは
もう知らない。
ただ日と云うものだけは
ぼんやり知っている。
目は弱っている。
また…。

またしても粗筋を書くことができず、
冒頭の一節を抜粋してしまいました。
全部でわずか6頁。
公園に集まる3人の老人、
ペエテル・ペピイ・クリストフの様子を
描いただけで、
話の筋があるわけではありません。
そもそも3人とも
ほとんど動かないのですから、
「様子」など
本来描けるものではないのです。
ドイツの詩人・リルケは、
それを丹念に描いているのですが、
一読すると「汚さ」が目につきます。

ペピイについては
痰を吐く描写がなされています。
「砂の上へ痰を吐く。
 もう両脚の間に
 小さい沼が出来ている。
 ペピイは生涯
 大酒を飲み通したので、
 その飲んだだけの酒の利足を
 痰唾にして、毎日大地に
 払い戻すのかと思われる」

クリストフについては
上着についた鼻水を描写しています。
「手鼻をかんだ処で、そのとばしりが
 地の透くようになった上衣に
 掛かっているのを、丁寧に
 ゴチック形の指で弾いている」

そして冒頭から登場するペエテルは、
二人同様、
老人性痴呆が発症しているのでしょう。
身体機能が衰えているだけでなく、
時間の感覚もありません。
毎日「暖まる」ために
公園のベンチに出かけていくのです。

人生の黄昏、いや、
光の消え失せた暗闇のような
「老人の生」を切り取って
描出しているのです。
リルケはなぜこのような
醜悪ともいえる描き方をしたのか?

ところが最後に一瞬だけ
変化が起こるのです。
12時の時報とともに
「おじいさん、お午」。
ペエテルの孫娘が迎えにきます。
そこから3人に変化が訪れます。

ペエテルの変化です。
「片手を十になる小娘の
 明るい色をした髪の上に
 そっと置く。
 小娘は自分の髪の中から
 手を摘み出して、
 それにキスをする」

そしてそのとき娘の手から
飜れ落ちた草花を、
クリストフは
「拾って、それを大切な
 珍らしい物のように
 手に持って」
帰るのです。
ペピイは
先に部屋に這入って、
 偶然の様にコップに水を入れて
 窓の縁に置」
きます。そして
「クリストフが拾って来た花を
 それに插すのを見ている」

暗闇に一瞬、温かく優しい光が
差し込んだ瞬間です。
ペエテルは子ども夫婦と孫たちが待つ
温かい家庭へと帰っていくのでしょう。
そしてペピイとクリストフは
貧院(おそらく貧しい人々を収容した
公営の施設)へと帰って行くのですが、
持ち帰った草花は、緩やかな光を
二人に与え続けるのでしょう。

一読しただけでは、
もしかしたら何を書いている作品なのか
理解できないかもしれません。
しかし、老人が咀嚼するように
ゆっくりと何度も読み味わったとき、
そこにえもいわれぬ
暖かい光景が浮かんできます。
ドイツの詩人・リルケが描き、
日本の誇る作家・森鷗外
日本語に置き換えた珠玉の逸品です。
ぜひご賞味ください。

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(2021.8.2)

S. Hermann & F. RichterによるPixabayからの画像

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