この人たちに「明日」は来ないのです
「明日 一九四五年八月八日・長崎」
(井上光晴)集英社文庫
八月九日、四時十七分。
私の子供がここにいる。
ここに、私の横に、
形あるものとして
いるということが信じられない。
小さな目鼻と
よく動く口を持った子。
私の子供は今日から生きる。
新しい夏の一日がいま
幕を上げようとして…。
「私」と「私の子供」の迎えた
「新しい夏の一日」は、
そのわずか七時間後には「消滅」します。
「私」や「私の子供」を含む
一切を巻き込んで。
八月九日は、
長崎への原爆投下の日なのです。
原爆の悲惨さを描いた小説の中で、
井上光晴の描いた本作品は、
やや特異な位置にあります。
原爆が最後まで登場しないからです。
原爆投下後の惨状を一切描かず、
その前日、一九四五年八月八日の
市井の人々の姿を
淡々と描いただけの作品です。
特に大きな筋が
あるわけではありません。
でも、だからこそ、読み終えた後、
底知れない恐怖と悲しみに包まれます。
一九四五年八月九日午前十一時二分、
広島に続き長崎に、
人類史上二発目の
原子爆弾が投下されました。
この小説に登場する人たちの住む
爆心地付近は、
おそらく何が起きたかもわからぬうちに
「消滅」したはずです。
この人たちに「明日」は来ないのです。
厳しい戦局の中で
無事に式を挙げた新婚夫婦にも
「明日」は来ません。
あらぬ疑いで投獄された夫とその妻にも
「明日」は来ません。
ようやくこの世に生を受けた赤ん坊にも
「明日」は来ません。
すべては一瞬のうちに
消え去ったのです。
それは現代の私たちの生活にも
起こりうることのようにも思えます。
ある日突然、
それまでの平和が覆され、
自分たちの「明日」が
なくなるかも知れないという
漠然とした不安を覚えます。
ただし、
一九四五年八月八日の長崎が、
決して「平和」だったわけでは
ありません。
沖縄が陥落し、
次は九州上陸ではないかという
暗い推測が街を覆っています。
街は幾度かの空襲を受けています。
特高警察が不満分子に
目を光らせています。
個人の自由は大きく制限されています。
そうです。この時点で、
すでに「平和」は大部分
浸食されていたのです。
それでも多くの市民は
そのことに気付かない、
もしくは気付かされていないのです。
そしてこれ以上状況は
悪くはならないだろうと
思い込んでいるのです。
絶えず「平和」が侵されていないか
嗅覚を研ぎ澄ませ、
自分たちの「明日」を守る努力を
していかなくてはならないのだと
思うのです。
「平和」は黙っていても
無限に続く保障はないのですから。
(2021.8.5)
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