読み手の理解を激しく拒絶する逸品
「マダム・エドワルダ」
(バタイユ/中条省平訳)
(「マダム・エドワルダ/目玉の話」)
光文社古典新訳文庫

見ぶるいするほどの美しい娼婦
マダム・エドワルダを、
「私」は選んだ。
男と女がひしめき合っている
部屋の中で、
ゲームは続けられる。
「私」は何としても下劣な人間に
ならねばならないと思い、
エドワルダを強く腕に抱いた。
そして…。
これまであまたの本を
読んできましたので、
「わからない」小説にも
数多く遭遇しました。しかし…、
フランスの作家・バタイユの書いた
本作品の「わからなさ」加減は
群を抜いています。
まったくわかりません。
寓話的・象徴的作品であることが
理解できる程度で、
ここに何が書かれてあるのか、
作者が何を伝えようとしているのか、
何度読んでも本作品は私の理解を
激しく拒絶するのです。
露骨な性描写が、
本作品のそこここに氾濫しています。
しかし、
そこから性的高揚は感じられず、
「生臭さ」や「醜悪さ」が
感じられるだけです。
これをエロスと呼んでいいのか?
むしろグロテスクではないのか?
これがエロスだとしたら、
作者は何を持ってエロスと考えたのか?
何一つ理解できません。
「存在・非存在」に関わる記述も
至る所にちりばめられています。
「彼女を覆う衣の下に、
もはや彼女が存在していないことさえ
私ははっきりと悟った」。
その前後を読んでも、
なぜその時点で彼女(エドワルダ)の
存在が揺らいでいるのか、
まったく理解できません。
そもそもその前後の彼女の行動が
不可解きわまりありません。
「私」とともに店を出たのに、
「ひとりで駆けだ」したかと思えば、
「痙攣するように身をよじりはじめ」、
そうかと思っていると
「私に飛びかかって」くるのですから、
まったくもって意味不明です。
その描写に挟まれるように、
彼女の「不在」が綴られていくのです。
さらには後半部分では
「私」の「死」への願望が顔を出します。
「私の生命は、
私が生命を欠くときにしか、
私が狂うときにしか
意味を持たない」。
なぜ「私」が
死を願わなければならないのか?
「死」が「私」に何をもたらすのか?
作者は「死」をどう捉えているのか?
またもや読み手の思考は
空中を彷徨うことになるのです。
さらなる謎は、
本作品は論理的に理解すべき
作品なのかどうかという点です。
ネットを検索すると、
わずかに本作品についての
解説が見つかりますが、
そのどれもが
到底納得できるものではありません。
こじつけにしか思えないのです。
理解不能ではありながら、
その言葉の切れ端に、
何か心が揺さぶられるものがあるのも
事実です(もっともそれは翻訳家の
文章の賜物かもしれませんが)。
本作品は頭で考えるのではなく、
読み手の感性に飛び込んでくる
テキストの刺激を
体感するためにあるのかもしれないと
思うようになりました。
本書にはもう一作品「目玉の話」が
収録されていますが、
本作品のあまりの「わからなさ加減」に
脱帽し、踏み込むのを止めました。
そのような本を人に薦めるのは
反則と自覚しているのですが、
すでに普通の小説に満足できず、
何か新しい刺激を欲している
あなたに限定して、お薦めします。
(2021.8.25)

【今日のさらにお薦め3作品】
①素敵な絵本です
「空の飛びかた」
(メッシェンモーザー)
②ロシアの古典的名作
「あいびき」(トゥルゲーネフ)
③明治の渋い作品
「赤蛙」(島木健作)
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