さて、私はどのような季感を…。
「草履」(幸田文)
(「台所のおと」)講談社文庫

夫に先立たれた上、
病気で寝たきりの息子を抱える
野内さんが、
「私」のもとへ相談しに来る。
金策のために出掛けた
電車の中で、
若い酔っぱらいに絡まれ、
大切な「草履」を売れと迫られ、
その男を突き飛ばして
逃げてきたのだという…。
幸田文の美しい日本語の作品です。
人間の心の温かさを
しみじみと感じさせる優れた作品です。
そうした筋書き自体も
素晴らしいのですが、
作者・幸田の細やかな感性、
そしてそれを正確に読み手に
伝えようとする日本語の表現こそ、
本作を味わう
要諦ではないかと思うのです。
「都会に季節感は少ないと言います。
たしかに新鮮な季感は
少ないのですが、
人もいけないのです。
季節の受取りかたが
だんだんへたになっているような
気もします。」
「人もいけない」という
不意を突かれる指摘。
「新鮮な季感」「季節の受取りかた」という
はっとさせるような視点。
何という鮮烈な書き出しでしょう。
「二月です。
三月の声を聞きさえすればといって
こらえる二月の寒さですが、
綿も毛糸も突き通す風が吹きます。」
いかに寒いかを強調するのではなく、
耐えられそうで耐えがたい、
その微妙な感覚を
的確に表現しています。
「いいえ、
貧乏とはそういうものです。
そこにあるものをくれるよりほかに
しようがないのは、
私もよく承知しています。」
お金を借りようと出掛けた先の
元上司宅もまた火の車であり、
その奥さんがこれを売って足しにしてと
野内さんに「草履」をくれたのです。
そのことを野内さんが
「私」に伝えた台詞です。
「私のやり方は冷淡で
たよりないかもしれませんが、
友情はまたいくらもほかの道で
役立ち得る、と思ったのでした。
私はずるい、いいかたをしました。
今夜どうするとは、
きめられないわ。
あしたもあさっても
いっしょに考えましょうよ。」
ここに幸田の温かさ、
人に寄り添うことのできる優しさが
凝縮されていると思うのです。
YESかNOかで
割り切ることのできない、
日本人の細やかな感情が
ここには繊細な筆致で描かれています。
こうした作品を
味わうことができるのは、
日本人として生まれてきた
最大の幸福だと思うのです。
「若い女のひとは、
春の感じの人も
秋の感じの人もいます。
それがおばあさんになると
季感から外れて、
無季の女といったふうになります。
私はまだ当分、
焚火のにおいを身につけている
女でありたく思うのです。」
さて、私はどのような季感を
身につけている男であろうか。
(2021.11.17)

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