「不安」が通奏低音のように流れている
「カーライル博物館」(夏目漱石)
(「倫敦塔・幻影の盾」)新潮文庫

この夏中は開け放ちたる窓より
聞ゆる物音に
悩まされ候事一方ならず
色々修繕も試み候えども
寸毫も利目無之
それより篤と熟考の末
家の真上に二十尺四方の部屋を
建築致す事に取極め申候
これは壁を二重に致し
光線は天井より取り…。
夏目漱石の短篇「カーライル博物館」。
創作を交えた
私小説と言われていますが、
きわめて随筆的であり、
英国留学中に訪問した博物館の感想を
綴っただけのようにも感じられます。
何度目かの再読を果たしましたが、
いくつか気になる部分が
見つかりました。
一つはカーライル邸に関わる記述が
否定的であることです。
「庵りというと物寂びた感じがある。
然しカーライルの庵は
そんな脂っこい
華奢なものではない。
往来から直ちに戸が敲けるほどの
道傍に建てられた
四階造の真四角な家である。」
まったく風情がないと
言っているようなものです。
一つはカーライル邸を訪れた「余」が、
窓から外の景色を見たときの描写です。
カーライル自身が
「眺めはいと晴れやかに心地よし」と
述べているにもかかわらず「余」は、
「何にも見えぬ。
鉛色の空が一面に胃病やみのように
不精無精に垂れかかっている
のみである。」
カーライル邸について、
ネガティブな見方しか
していないのです。
しかし漱石はカーライルを
尊敬していたとされています。
なぜ本作品において
このような表現になったのか?
本作品後半部では、
カーライルの神経過敏な様子が
記述されています。
「洋琴の声、犬の声、
鶏の声、鸚鵡の声、一切の声は
悉く彼の鋭敏なる神経を刺激して
懊悩已む能わざらしめたる極
遂に彼をして
天に最も近く
人に尤も遠ざかれる住居を
この四階の天井裏に求めしめた」。
「余」はカーライル邸から、
元家主の神経過敏で苦しんでいる様子を
ひしひしと感じているのです。
しかし「余」はそれを
自分と重ね合わせようとは
少しもしていません。
客観的に捉えているだけなのです。
これは同時期に本作品と並行して
書かれた処女作「吾輩は猫である」での、
登場人物・苦沙弥(=漱石自身)が
己の胃弱を尊敬するカーライルに
重ね合わせて自分を慰めていたのとは
百八十度異なります。
「余」=漱石ではないのです。
したがって本作品は私小説なのです。
尊敬するカーライルへの
共感を描くかわりに、
彼と同様に神経を病むであろう
将来の自身に対する不安が、
本作品には通奏低音のように
流れているような気がします。
その「通奏低音としての不安」は、
後の作品において、
次第にはっきりとその旋律を
奏でることになるのです。
(2021.11.24)

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