自伝的要素を色濃く宿した生粋の純文学
「濁った頭」(志賀直哉)
(「清兵衛と瓢簞・網走まで」)新潮文庫

基督教の教えを守り、
自らの性欲を「私」は抑えてきた。
しかし家に手伝いに来ていた
四歳年上の女お夏に
誘われるがまま、
「私」は関係を持つ。
「罪」を犯していることなのか、
それともお夏への愛情なのか、
判断できないまま「私」は…。
お夏との駆け落ち、
そして諍いの末、
「私」はお夏の咽に錐を突き刺すのです。
志賀直哉の犯罪小説とも言われる
作品群の一つです。
衝動的に相手の咽に
凶器を突き立てるという設定は、
以前取り上げた
「剃刀」と酷似しています。
目を引くのはやはり山場における
殺人の描写です。
実におどろおどろしいものがあります。
まず、「私」の精神状態の描写です。
「或時は溶けた鉛のように
重く、苦しく、
ドロドロしている事もありますし、
或時は乾いた海綿の様に、
軽く、カサカサして
中に何もない様に
感じられる事もあるのです。」
続いて殺意が現実化する瞬間の
描きようです。
「柄の所までぶつりと深く刺す。
鋭い錐が気持よく台を貫す。
…その感じ、
そういう痛快な感じのする
生活に入りたい。」
そして事が済んだ後の
夜明けの描出です。
「縁のない、やけて赤くなった畳に
晩春の穏やかな朝の光りが
一杯に差し込んでいる。
その陽の当たっている処に、
蝿が群がって騒いで居る。
流の音、鶯の声、
これらが絶えず聞える。
日を背にした彼方の山の側面が
煙ったように紫色をして居ます。
風もなく、妙にぼわんとした、
睡たげな朝です。」
これが一切をやり遂げた
「私」の精神の暗示となっています。
志賀直哉独特の、
余計なものを含まない
純粋な文章である分、
「私」の心象風景が
手に取る様に伝わってくるのです。
ただし、書かれてあること
(冒頭と付記での友人の手記)を
総合すると、
「私」が殺人を犯した形跡は
見られません。
お夏を殺害した「私」の
なまめかしい描写は
すべて「私」の脳内で創り上げられた
幻影に過ぎないのです。
無理もありません。
そこに至る経緯には
それなりの理由があります。
「私」は敬虔な基督教徒でした。
基督教の教えでは、
姦淫(結婚前の性交渉)は御法度です。
「私」は以前から
性欲の高まりに悩まされていました。
明治という時代に、教会の牧師から
「姦淫罪は殺人罪と同等」などと
教え込まれれば、
性欲は押さえ込まざるを得ません。
しかし「私」は
教えを守ろうとする一方で、
「婚姻後の性交と姦淫は
何がちがうのか」と
反発心も抱え込んでいるのです。
ここから精神分裂ともいえる症状が
始まってくるのです。
お夏と関係を持ち、
性の神秘を解いた喜びとともに、
大変な罪を犯したという意識に
苛まれるのです。
両親への反発心から
お夏と駆け落ちをするものの、
ことあるごとにお夏と諍いを起こす。
お夏と別れる算段をするものの、
一日でもお夏を傍らに置かずに
いられない自分に気付く。
しまいには現実と妄想の
区別が付かなくなっていく。
それがお夏を殺す夢想へと
突き進んでいったのでしょう。
実は作者・志賀直哉自身も
若い頃に基督教を学んでいます。
また、二十代の頃、
家の女中と深い仲となり、
父親との確執につながったのも
本作品と状況が酷似しています。
本作をはじめとする一連の犯罪物は、
明治43年から大正3年までの間に
書かれた作品です。
執筆当時、志賀直哉自身の精神が
不安定だったことがうかがえます。
森鴎外のような鷹揚さがあれば、
「ヰタ・セクスアリス」のように
性衝動を冷静に
自己分析できたでしょう。
あるいは谷崎潤一郎のような
図太さがあれば、
「鍵」をはじめとする
一連の作品のように、
自らの性体験を
赤裸々に告白できたでしょう。
対して志賀直哉は
純粋すぎたのだと思われます。
純粋すぎるが故に苦悩する
志賀直哉の姿が見て取れる本作品です。
殺人事件を扱っているため、
「純文学作家の書いたミステリ」として
捉えられることの多い
作品ではありますが、
むしろ作者の自伝的要素を色濃く宿した
生粋の純文学作品と
捉えるべきでしょう。
(2021.12.16)

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