すべては絶望の果ての幻想
「薄明の彷徨」(安部公房)
(「夢の逃亡」)新潮文庫

「僕」がたどり着いた
その部屋の中では、
彫刻家の男が
結婚通知を書いていた。
男は自らが創り上げた粘土像と
結婚するのだという。
そしてそのために
自らの命を終えようとしていた。
コーヒーに毒物を垂らして。
「僕」は部屋を出るが…。
安部公房初期作品集「夢の逃亡」に
収録されている一篇です。
難解なものの多い
安部の初期作品ですが、
本作品は比較的理解しやすい
(筋書きだけは)ものと思われます。
場面は4つです。
A:「僕」の部屋、
B:彫刻家の部屋①(夜明け)、
C:彫刻家の部屋②(日暮れ)、
D:再び「僕」の部屋。
AとDは冒頭と終末の
わずかな場面であり、
メインはB・Cです。
しかしこれらは描写が似通っていて
(わずかに異なる)、その対比が最大の
読みどころとなっているのです。
大枠は以下の通りです。
「B」
彫刻家は自己否定の道を歩んでいた。
彫刻家にとって、
造型とは粘土で存在を解釈すること。
彫刻家は粘土像を創り上げるが、
その結果、
娘はいろいろなものを剥ぎ取られ、
やつれ衰え病に伏せる。
娘は彼と結ばれるために、
彼の死を願う。
「C」
彫刻家は自己肯定の道を歩んでいた。
彫刻家にとって、
造型とは粘土で存在を征服すること。
彫刻家は粘土像を創り上げるが、
その結果、
娘は強いものに鍛え上げられ、
やがて彼を拒絶するようになる。
娘は彼にやり直すことを促すが、
それは死に繋がっていく。
考えるに、Bは人生の黎明期、
つまり人間の若い頃の心の状況を、
そしてCは人生の黄昏期、
つまり人間の老いた時期の
魂の在り方を、
暗示しているのではないかと
思うのです。
それも、それぞれの暗部の。
彫刻家は「僕」に向かって、
自己否定も自己肯定も、
破滅にしか繋がらない上に、
それを避ける術はないと
教え諭しているかのようです。
「僕」に語りかける彫刻家は、
自らのことをあえて「彼」と
三人称で呼びます。
そして「彼は何も知らないのだ」と
言い放ちます。
なぜそのような言い方をしたのか?
それは最後のDの場面で
明らかになります。
すべては絶望の果ての幻想であり、
「死」の訪れが暗示されます。
救いがまったく存在せず、
最後には底知れない絶望が感じられる
後味の悪い作品ではありますが、
読み手の心にくさびを打ち込む
強烈な力を持っています。
間違いなく安部公房初期の傑作です。
ぜひご一読を、
といいたいところですが、
本書は絶版であり、流通しているのは
高価な全集版だけとなりました。
本書の復刊を願います。
※「夢の逃亡」収録作品一覧
「牧草」
「異端者の告発」
「名もなき夜のために」
「虚構」
「薄明の彷徨」
「夢の逃亡」
「唖むすめ」
(2021.12.22)

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