「私」が寄せる想いは、恋愛に近いものがある
「冬の一等星」(三浦しをん)
(「日本文学100年の名作第10巻」)
新潮文庫
「冬の一等星」(三浦しをん)
(「きみはポラリス」)新潮文庫
私が誘拐されたのは、
八歳の冬のことだった。
文蔵には私を誘拐するつもりは
毛頭なかったはずだし、
私も最後まで誘拐されているとは
思っていなかった。
だがあの状況を一言で
言い表そうとすると、
結局はどうしても
「誘拐」になって…。
しかし本作品は犯罪小説などではなく、
この文蔵も決して悪人ではないのです。
「誘拐」ではなく、
正確には「キーの差し込んだままの
乗用車を盗んだら、
後部座席に女の子が乗っていたので、
そのまま同行させた」のです。
彼ははじめから車を乗り捨て、
所有者に返す意志があったのですから、
法律上は「窃盗」にもならず
「無断借用」となる可能性もあります。
文蔵という古くさい名前ですが、
文中には
「二十代の半ばぐらい」とあります。
まだまだ若いのでしょう。
彼がどんな理由で
このようなことをしたのかは、
まったく触れられていません。
だからこそ、
文蔵と「私」の繋がりだけが、
はっきりと浮かび上がってくるのです。
八歳の「私」を一番最初に
受け入れてくれたのが
文蔵だったのでしょう。
「ちょっと変わっている」と
叱りつける母親、
「授業中によくぼんやりしています」と
評価する学校、
彼女の周囲は、彼女をそのまま丸ごと
受け入れてくれてはいないのです。
彼女の話をしっかりと聞き、
彼女に対等な立場で話しかけ、
「あんたも俺も変なのは一緒」と
彼女に寄り添ったのは、
文蔵が初めての人間だったのです。
「私」が文蔵に寄せる想いは、
恋愛に近いものがあるのでしょう。
自分を受け入れ、自分を認め、
自分に寄り添ってくれる男性。
ただ二人の間には、
「住む世界の異なり」と、
それ以上にどうすることもできない
「年齢差」があっただけなのです。
寒くないようにと
「私」に渡したジャンパーを、
「それはもう、俺には
いらないものだから」という台詞、
そして「文蔵はついに捕まることは
なかったが、それはたぶん、
誰にも捕まえられない場所に
文蔵が行ったからだと思う」の一文から
判断すると、この文蔵という青年は、
もう生きてはいないのでしょう。
終末の一節が涙を誘います。
「文蔵はたぶん、とても
昏い場所へ行こうとしていた。
でも、突然まぎれこんだ私を、
そこへつれていこうとは
決してしなかった。
傷つくことがないように
細心の注意を払って、
私を暗がりから遠ざけた。」
「風が強く吹いている」
「あの家に暮らす四人の女」
「舟を編む」等の
長編傑作の多い三浦しをんは、
短編でも超一級の作品を
創り上げています。
ぜひご賞味あれ。
(2022.1.6)
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