「アグイー」はいったい何の暗喩なのか?
「空の怪物アグイー」(大江健三郎)
(「空の怪物アグイー」)新潮文庫
「空の怪物アグイー」(大江健三郎)
(「日本文学100年の名作第6巻」)
新潮文庫
作曲家Dの付添いという
アルバイトに採用された
大学生の「ぼく」。
Dは障害を持って生まれた
息子のことで衝撃を受け、
精神を病んでいた。
他の人間の目には見えず、
空の上からときおり降りてくる
アグイーと、
Dは交歓していた…。
アグイーとは「木綿地の肌着を着た
カンガルーほどの大きさの
太りすぎの赤ん坊のようなもの」。
それらは「空に浮遊」していて、
「たびたび空から降りてくる」のだと
Dは「ぼく」に打ち明けます。
それはいったい何の暗喩なのか?
「赤ん坊のお化け」であるならば、
障害を持って生まれた息子を
医師と相談の上
「処理」してしまったことの
贖罪の対象であると見なすことは
一応可能です。
しかし最後の場面で、
「ぼく」もまたDとの交流の10年後に
アグイーを目撃しているのですから、
その解釈は単純に過ぎるのでしょう。
そもそも主人公は
Dではなく「ぼく」なのです。
低下した右目の視力のため、
明るい世界に暗くあいまいな世界が
重なって見えるようになったことを
叙述する「前文」と、
視力低下を招いた
アクシデントについて語る「後文」、
その間に挿まれた「本文」が、
作曲家Dとの邂逅についての
「ぼく」の回想となっているのです。
作曲家Dという人間については、
あくまで「ぼく」の視点から
語られるのみで、
読み手が味わうべきは
「ぼく」の物語なのです。
本文中でDは28歳、
「ぼく」は18歳です。
前文・後文は28歳になった
「ぼく」の語りとなっています。
前文には
「ぼくがはじめてあの
センチメンタルな
人物に会ったとき、
ぼくは《時間》の意味を
ごく子供らしいやり方でしか
理解していなかった」、
後文には
「この十年間に《時間》がぼくの空の
高みを浮遊する
アイヴォリイ・ホワイトのもので
いっぱいにしたことをも知った」と
あります。
また本文にはDの台詞として
「空を、地上から、
ほぼ百メートルのあたりを
アイヴォリイ・ホワイトの
輝きをもった
半透明の様ざまの存在が、
浮遊している。
それはわれわれが、
この地上の生活で喪ったもの」
「きみにとって
空の百メートルほどの高みは、
いまのところ
空虚な倉庫ということに
すぎないんだ」とあります。
それらを総合すると、
アグイー
=アイヴォリイ・ホワイトのもの
=人が生きる中で喪失したもの、という
関係が浮かび上がります。
そして10年前に
28歳だったDの見えたアグイーを、
28歳になった「ぼく」が
一瞬だけ見ることができた、
さらには、
10年前には空っぽだった空が
今ではアグイーで
満たされてしまったことを知った、と
いうのが筋書きの肝となると
考えられます。
で、それを通して作者・大江健三郎は
何を言いたいのか?
そこでまたわからなくなるのです。
やはり大江文学は難解です。
本作品もやはり再読の積み重ねが
要求される小説なのでしょう。
一度や二度読んだだけでは、
作者が編み上げた複雑で緻密な世界を
理解することは叶わないのです。
時間をおいて、
再び接近してみたいと思います。
※「空の怪物アグイー」
収録作品一覧
不満足
スパルタ教育
敬老週間
アトミック・エイジの守護神
空の怪物アグイー
ブラジル風のポルトガル語
犬の世界
※「日本文学100年の名作第6巻」
収録作品一覧
1964|片腕 川端康成
1964|空の怪物アグイー 大江健三郎
1965|倉敷の若旦那 司馬遼太郎
1966|おさる日記 和田誠
1967|軽石 木山捷平
1967|ベトナム姐ちゃん 野坂昭如
1968|くだんのはは 小松左京
1969|幻の百花双瞳 陳舜臣
1971|お千代 池波正太郎
1971|蟻の自由 古山高麗雄
1972|球の行方 安岡章太郎
1973|鳥たちの河口 野呂邦暢
(2022.1.27)
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