「母」(ヴィーヒェルト)

母親としての深い愛情とすべてを見てきた人生の年輪

「母」(ヴィーヒェルト/鈴木仁子訳)
(「百年文庫086 灼」)ポプラ社

反逆の疑いをかけられて
収容所に送られていた女性が、
終戦によって家に帰ってきた。
家には家族のほかに
数人の兵士がいて、
不穏な空気をもたらしていた。
彼女の息子の一人は片腕を失い、
拘束されていた。
息子の罪は一体、…。

大戦終戦直後の
ドイツが舞台となっています。
女性はヒトラーの悪口を言ったことを
密告され、
強制収容所送りとなっていました。
処刑の前日にドイツが降伏し、
彼女は帰還することができたのです。

家に帰ってみると、
連合国の兵士が
片腕を失った彼女の息子を
拘束していたのです。
その罪は…、ナチスの党員として
無実の者を讒言により
収容所送りにしたこと。
つまり、彼女を密告したのは、
この息子だったのです。

ここから母としての強さと優しさが
描かれます。
女性は息子を蔑むのでもなく、
ナチスを恨むのでもなく、
批判の矛先を
連合国兵士たちに向けるのです。

「さあ、あの子を連れてきておくれ!」
「命令してもらっちゃこまるな」
「命令するのは楽じゃない。だけど、
 いうことをきくのは簡単だ。
 年取った母親がいるところでは、
 昔からいうことを
 すぐきいたもんだよ」

「人を殺さなかった者が、
 おまえたちのうちにいるかい?」
「われわれが来たのは、
 もう人殺しをしないように
 するためであって」
「人を殺すのは、
 刑吏だけだと思ってるのかい?
 それとも兵隊だけかい?」

「神様はご覧になってる。
 おまえたちみんなを。
 勝った者も負けた者も。」

彼女が指弾したかったのは
人の心を歪めてしまう
戦争そのものなのでしょう。
感情を押し殺しながら、
極めて穏やかな言葉で、しかし
毅然とした決意を持って語られる
女性の言葉が
胸に刺さってくるかのようです。

そして自分を売り渡した息子を、
無言で許すのです。
「帝国の名誉をまもる、
 若い、妥協をゆるさぬ
 番人であった息子。
 もう一度眼をあげて、
 あの子の幼い顔に
 まなざしを沈めた、深々と、
 あの子がお腹にいたときのように、
 深々と。」

何が正義で何が悪なのか?
それが些細なことのように
思えるくらいの、
母親としての深い愛情と
すべてを見つめてきた人生の年輪が
読み手の心を揺さぶっていきます。

事実を淡々と描写しながらも
戦争の罪を鋭く告発する、
日本ではあまりその名を知られていない
ヴィーヒェルトによる
渾身の一篇です。
ご賞味あれ。

(2022.2.16)

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