男に理解できない岡本かの子の「女心」
「桃のある風景」(岡本かの子)
(「女心についての十篇 耳瓔珞」)
中公文庫

桃花の中へ入ってしまえば、
何もかも忘れた。
一つの媚めいた
青白くも亦とき色の神秘が、
味覚に快い冷たさを与えた。
その味覚を味う舌が
身体中のどこに在るやら
判らなかったけれど味えた。
私は、
あはあは声を立てて笑った。…。
粗筋を紹介するのが難しい短篇です。
思春期特有のモヤモヤ感を抱えた娘が、
桃林に入り味覚を満足させて
心を穏やかにするというだけの
作品なのです。
「女心についての十篇」と題された
アンソロジーに収録された
岡本かの子の一篇。
「女心」だけに、男の私には
理解できないことばかりです。
男に理解できない本作品の「女心」①
「私」の「欲求」の本質は何?
冒頭でいきなり提示される
「食欲でもないし、情欲でもない。
肉体的とも精神的とも
分野をつき止めにくいあこがれ」が、
「私」の抱えている問題なのでしょう。
いかにも思春期特有の
不安定な心なのですが、
それはいったい何なのか、
男である私にはよくわかりません。
「性の欲望」であることを
「私」は否定していないのですが、
その割には「好いている美少年」を
袖にして桃林へと「私」は急ぎます。
異性への憧憬ではないのです。
男の子であれば、
好きな女の子と会うだけで
精神的な充足を得られるのですが、
そこが「女心」なのでしょうか。
男に理解できない本作品の「女心」②
桃林で何を味わっているの?
桃林に入って
味覚を満足させているのですが、
桃を食べているわけではありません。
書かれてある文章から
情景を想像するかぎり、
桃林の澄んだ空気・鮮烈な香り・
日差しの遮られた清涼感、
おそらくはそのようなものを
五感で味わっているのでしょう。
しかしながら
それすらも確かではありません。
もしかしたら「桃林」は
何かの暗喩であり、
メタファーとしての
表現の可能性もあるからです。
だとしたらいったい何?
男に理解できない本作品の「女心」③
最後の一節にどう結びつくの?
最後の一節がやっかいです。
伊太利フローレンスで見た
「花のサンタマリア寺」を
引き合いに出し、
「私は、心理の共感性作用を
基調にするこの歴史上の
芸術の証明により、
自分の特異性に普遍性を見出して、
ほぼ生きるに堪えると心を決した。
――人は悩ましくとも
芸術によって救われよう――と。」と
結ばれます。
なぜここに帰着するのか?
まったくわかりません。
わかろうとするべき
小説ではないのかもしれません。
男が「女心」を論理的に
理解しようとしても無理なのです。
頭で考えるのではなく、
五感を総動員して
受け止めるべきなのでしょう。
そんなことを考えながら、
巻末の「選者あとがき」を読むと、
「岡本かの子は不思議な人だと思う」。
岡本かの子の尋常ではない「女心」は、
女性でもやはり
理解できていないのでした。
(2022.2.21)

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