あとには人生の悲哀だけが残されてしまう
「黄昏の回想」(椎名麟三)
(「百年文庫027 店」)ポプラ社

若林はふと
デパートに立ち寄った際、
六十ぐらいの老人がソファに
座っているのを目にする。
老人は終始
売り場の方を眺めながら、
店員たちの些細な失敗を見て
嘲笑的な笑みを
浮かべるのだった。
若林はその老人に
見覚えがあった…。
主人公・若林が見かけた、
性格のねじ曲がっていると思われる
老人は、彼が少年時代に
コック見習いとして二年間働いていた
カフェのマスターだったのです。
しかし、
彼には苦い思い出がありました。
それはカフェの同僚に
ずっと馬鹿にされ続けた思い出です。
彼の容貌が不細工であったため、
女給たちは何の悪気もなく
悪戯を仕掛けていました。
マスターも影では
彼のことを笑っていました。
昨今であれば「職場でのいじめ」と
いうことになります。
同僚たちについては、
彼は何も求めてはいません。
しかし彼は、マスターに対しては
救いを求めていたのです。
若林とマスター、二人はなぜそのような
歪な人間関係となったのか?
一つは、若林には
ややアスペルガーの傾向があり
(書かれてある状況を読む限り
そうした傾向が見られる)、
そのためマスターと十分に
打ち解けることができなかったという
ことが考えられます。
その一方で、
マスターは多分に厭世的な人物です。
他人を信用していません。しかし、
それを周囲に気付かれることなく、
ユニークな人物として
必死に振る舞っていたのです。
それほど悪人とは思えません。
本作品には、
そのような若林とマスターとの、
過去と現在のすれ違いが
描かれています。
我が身の不幸を嘆く若林に
マスターが発した言葉が印象的です。
「やさしい言葉を
たった一言かけてやれば、
お前は調子づいて
世の中に自分みたいな幸福ものは
いないという顔になるよ。
だが俺はお前のそんな簡単さに
腹が立つのだ。
俺はお前のそんな簡単さを
妬いているのかも知れないが…」。
酔って泣いた若林少年とマスターの
やりとりも心に刺さってきます。
「マスターだって鬼だ!」
「そうだ、
人間にはろくな奴はいないよ。
お前にもそれがやっと
わかったらしいな。
さあ、眠るんだ。
眠るということはこの世で一番いい」。
再びデパートに出向いた若林は、
老人となったマスターに
声をかけるのですが、
老人は若林には全く気付きません。
そしてそのあとには、
老人(マスター)と若林の人生の
悲哀だけが残されてしまうのです。
作者の半生が
なぞられていると思われる掌編。
かなり苦めの味わいです。
(2022.6.22)

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