他の作品との落差の大きいコント、味わえます
「虚実の証拠」(小酒井不木)
(「森下雨村 小酒井不木
ミステリー・レガシー」)
光文社文庫

「証拠は顔に書いてある」
「おどかしちゃいけませんよ」
「その証拠があるので、お前は
年よりもぐっとふけて見える」
「おや、判事さんは嘘つきね。
さっき、二十五ぐらいに
見えるといった癖に」
「いや、実は四十五と
いいたかったんだが」…。
「虚の証拠」
別にコントではありません。
小酒井不木の短篇ミステリです。
しかし文庫本にして
わずか5頁の掌編、
それも「虚の証拠」「実の証拠」と
二つに分かれています。
粗筋をまとめるのもどうかと思い、
一節を抜き書きしました。
どちらも会話文だけからなるもので、
二人の人物、
容疑者と取調官のやりとりで
すべてを表現しているのです。
「虚の証拠」は、
モルヒネを飲ませて愛人・磯吉を
殺害した女・大藤みよを
追い詰める判事の取り調べが絶妙です。
もっとも理詰めで
追い詰めたのではありません。
35歳の容疑者を
「年よりもぐっとふけて見える」と
あおり、しまいには殺人を示す
自白を引き出すというものです。
つまり、
「問うに落ちず語るに落ちる」と
いうものです。
「別にコントではありません」と
書きましたが、十分に
コントとして読むことができます。
ぜひ読んで確かめていただきたいと
思います。
もっとも、この程度の「引っかけ」で
引き出した自白など、
証拠採用されるはずもありませんが、
その一言から厳しい追及が成されたと
推測されます。
「たといチョークが
ついていたとて、
僕が書いたとは
限らぬじゃないですか」
「それじゃ、
外の証拠をあげよう。
僕が大野君の死体を検査したら、
その右の拇指と食指に、
黄色いチョークの粉が
ついていたんだ。
立派な証拠じゃないか?」…。
「実の証拠」
「実の証拠」も、
酔った勢いで友人を殺害してしまった
青年を取り調べる警察官の尋問が
秀逸です。
こちらも実はコントとしか
いいようのないものです。
殺人の動機からしてふざけています。
被害者の背中には、
「黄色いチョークで、
ある卑しい物の形が
書かれてあ」ったのです。
それが原因で喧嘩になり、
殺人に至ったというのです。
そんなチョークの落書きなどを
証拠にしなくとも、現実的には、
殺害される直前まで一緒に酒を飲み、
そして大喧嘩した相手以外に
犯人がいようはずもなく、
捜査はきわめて簡単に
進むに決まっています。
それをわざわざ
「卑しい形を書きあった」ことを
自白させて立証するなど噴飯物であり、
だからこそコントなのです。
しかも書いたのは医療ミステリで
知られている小酒井不木。
彼の作品は、
高度な医療に関わる知見や、
現代の科学的捜査に通ずる手法などが
いくつも登場し、当時としては
最先端のミステリだったはずです。
それがそうしたものを一切絡ませない
コント。
他の作品との落差の大きさも
味わいどころでしょう。
さてこの小酒井不木、
1890年に生まれ、
わずか38歳で病没した作家は、
ミステリ作家だけではなく、
将来を嘱望された優れた医学者であり、
豊かな感性を持った随筆家であり、
海外ミステリを精力的に紹介した
翻訳家であり、
捜査機関顔負けの
犯罪研究家でもありました。
短命であったものの、
その著作はミステリだけでも
「小酒井不木探偵小説全集」全8巻に
まとめられています。
本の友社から1992年に
全8巻セットで発売され、
現在は当然絶版中、
古書は高値で取引されています。
さらに学術書を含む
「小酒井不木全集」は
全17巻にも及びます。
こちらは1925年から刊行され、
現在では図書館、それも
首都圏の大きな図書館でなければ
所蔵していないのではないかと
思われます。
何とかしてその全体像に
迫っていきたいと考えています。
〔「ミステリー・レガシー」〕
丹那殺人事件 森下雨村
小酒井氏の思い出 森下雨村
按摩 小酒井不木
虚実の証拠 小酒井不木
恋愛曲線 小酒井不木
恋魔怪曲 小酒井不木
闘争 小酒井不木
科学的研究と探偵小説 小酒井不木
江戸川氏と私 小酒井不木
〔小酒井不木の作品〕
〔ミステリー・レガシー〕
(2022.8.12)

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