西条八十を見る目が変わってしまいました
「黒縮緬の女」(西条八十)
(「百年文庫041 女」)ポプラ社

おもいでは風のように来る。
今朝浅草神社奉賛会から
三社祭への招待状を貰った。
それを広げて読んでいるうちに、
ふと忘れていた
女妖のひとりを想いだした。
出逢った場所は
浅草の六区だった。
まだ二十四五。
大学を出たての…。
「若くあかるい歌声に
雪崩は消える花も咲く」(青い山脈)、
「吹けば飛ぶよな将棋の駒に
賭けた命を笑わば笑え」(王将)。
西条八十と聞いて、
ピンとくるのは私よりも一世代
早い人たちでしょうか。
詩人としてよりも「童謡」や「歌謡曲」の
作詞家としての方が有名でしょう。
そんな西条八十は小説も
書いていたというのですから驚きです。
粗筋代わりに
冒頭の一節から抜粋しました。
「女妖」からわかるように、
本作品は詩人である「ぼく」が
「女妖」と交わった
一夜を描いた作品です。
随筆といわれることもありますが、
正確には、そこに幾ばくかの脚色を含む
「私小説」でしょう。
浅草へ芝居を見に行った「ぼく」を、
見知らぬ黒縮緬の女が
「やなぎ」と声をかける。
誰かと勘違いしているらしい。
でも「ぼく」はそのまま
黒縮緬の女についていくと…、という
筋書きです。
内容は十分妖しいのですが、
表現は妖しくありません。
冒頭の「おもいでは風のように来る」も
詩的なのですが、
「その」場面も詩人らしい言い回しで
表現されています。
「黒縮緬は、
猫が鼠をいじめるように、
さんざんうぶなぼくを
おもちゃにした。
こっちも若いし、
相手が美人だし、
それにスリルもあるので
はなはだ愉快だったが、
相手はさらに余裕があるだけに
いかにも楽しそうだった。
一擒一縦、巧みにぼくの
青年の客気を抑えて、
いろいろに指令し、
おもう存分享楽した」。
わずか数頁の短篇なのですが、
その終末も詩的です。というか、
セーラ・ティースデールなる
詩人の詩を引用し、
余韻たっぷりに幕を閉じています。
「もしも誰かがたずねたら
それは、とうの昔に
忘れたと言って下さい、
花のように、火のように、また、
誰も知らぬ雪の中の
忍びかの足音のように」。
で、西条八十は、この短篇作品で
何を伝えたかったのか?
何度読み返しても、
私には「自慢」としか思えません。
作品中にあるように、八十は
「遊蕩に亡父の全財産をつぶして」
駆け落ちした長兄に代わって
家督相続人となり、
その兄の着物を着ていたために
「一見道楽者」と見られることが
多かったといわれています。
しかも真面目に働くのではなく、
「証券取引所に通い」、
「一攫千金を夢見る」、
いわば兄と大差ない
遊び人だったわけです。
写真を見てもかなり二枚目です。
作品に近いような「事実」が歴然とあり、
それを周囲に(広く日本中に)
自慢したくて、
多少ロマンチックな脚色を加えて
「私小説」として
仕上げたのではないかと思われます。
私は本作品を
アンソロジー「百年文庫」で
読むことができましたが、
もともとは作品集「女妖記」の中の
一篇です。
2008年に
「半世紀を経ての復刊・文庫化」を
果たしましたが、すでに絶版。
「女妖記」という表題ですから、
八十には似たような
「妖しい女性との交わり」話が
まだまだあるのかも知れません。
西条八十を見る目が
変わってしまいました。
〔西条八十の本について〕
現在、以下のような本が
流通しているようです。
〔本書「百年文庫041 女」収録作品〕
「須崎パラダイス」(芝木好子)
「黒縮緬の女」(西条八十)
「行く雲」(平林たい子)
(2022.8.31)

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