本作品は決して悲哀物語ではないのです
「世の中へ」(加能作次郎)
(「世の中へ/乳の匂い」)
講談社文芸文庫
「私」は十三歳のとき、
伯父を頼って京都へと出奔した。
「今晩だけは
お客さんにしてやるが、
明日から丁稚やぜ」。
伯父の店で
丁稚奉公を始めた「私」。
辛い仕事、
甘える対象のないさびしさ、
自分の行く末は
どうなるのかという不安…。
以前取り上げた「乳の匂い」と同様、
作者の丁稚時代を描いた私小説です。
「乳の匂い」は丁稚時代に触れた女性の
温かさに焦点を当てているのですが、
本作品はその部分は描かれずに、
13歳から15歳までの苦労した日々が
淡々と綴られています。
朝から晩までこき使われる、
水くみなどの重労働のほかに
針仕事などもさせられる、
自分の自由になるお金も時間もない、
気を緩めれば伯母の当て擦りか
伯父の叱責が飛ぶ、
そして突然襲った病気による入院、
何よりも自分の将来が
まったく見えない不安。
現代では虐待と呼ばれる状況が、
明治の時代には当たり前のように
存在していたのです。
それだけ捉えると
黒島伝治のようなプロレタリア文学に
なってしまうのですが、
本作品は決して悲壮感に
包まれてなどいないのです。むしろ、
「私」のこれからの人生の展望が
予感させられるような、
爽やかな読後感を覚えます。
一つは「私」の精神的な逞しさが
端々に描かれていることです。
はじめは
「『お出でやあす。』
『お帰りやあす。』という、
この単純な言葉が
何うしても言えなかった」のが、
「『お出や―す。おあがりや―す。』
『お帰りや――す。』
私は声を振りあげて
間断なく呼ばわって居た」で
締めくくられる終末となるのです。
丁稚という身の上を割り切りながら
なおかつ将来に目を向けている
前向きさが伝わってきます。
もう一つは
ことさら悪人を仕立てるのではなく、
一人一人の人間が
自然体で描出されていることです。
伯父は厳しい人であり、
「私」のことなど
何も考えていないことは確かですが、
それでも「悪人」としては
描かれていないのです。
悪人でも善人でもなく、
どこにでも存在するような「人間」として
登場人物全てが描ききられています。
本作品は決して
悲哀物語ではないのです。
そうした本作品の構成上の特質が、
飾り立てのない
美しい日本語と相俟って、
極上の文学として昇華しています。
「乳の匂い」とともに、
大正期の日本文学を代表する作品だと
考えます。
一般的には名前の十分に
知られていない作家・加能作次郎。
是非とも再評価の気運が高まることを
期待したいと思います。
〔「乳の匂い」との関わりについて〕
「乳の匂い」「世の中へ」は
設定・登場人物等、ほぼ同じです。
しかし、
それぞれ独立した小説ですので、
細部には異なる部分が
いくつか見られます。
〔関連記事:加能作次郎作品〕
〔作者・加能作次郎について〕
加能作次郎
(1885年1月10日 – 1941年8月5日)は、
日本の小説家であり評論家、
翻訳も残しました。
石川県羽咋郡西海村風戸出身。
苦難の少年期を過ごし、
早大在学中に「厄年」で文壇デビュー。
「世の中へ」が認められ、
自然主義の流れをくむ人情味豊かな
私小説に独自の境地を拓いたのですが、
昭和に入り低迷しました。
現在、その著作のほとんどが絶版中。
青空文庫化も進んでいない状況です。
また現在、以下の作品が
青空文庫に収録されています。
「恭三の父」
「少年と海」
「乳の匂ひ」
「厄年」
「世の中へ」
「早稲田神楽坂」
(2022.10.5)
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