第二の転換点、内省の時代に入った日本文学
「日本文学100年の名作第8巻
薄情くじら」新潮文庫
「薄情くじら 田辺聖子」
「やっぱり、ケチだからよ、
お父さん」木津は家族の者に
このところ、頓に、
「ケチ親爺になった…」と
思われている。
中学生の娘二人はそれを
口にも出す。また、
「男のくせに、
やたら細かいことに口出して…」と
憫笑されているらしい。…。
新潮文庫刊
「日本文学100年の名作第8巻」も、
ようやくすべての作品の
紹介が終わりました。
1984年から1993年までの10年間、
時代は昭和が終わり
平成へと突入しました。
戦後40年から50年。
新しいものが古いものに
取って代わった時代といえるでしょう。
そうした世相を反映した三篇が、
表題作・田辺聖子の「薄情くじら」と
高井有一「半日の放浪」、
宮本輝「力道山の弟」です。
三篇とも、
失われたものを慈しむかのような
ノスタルジックな雰囲気が
漂っています。
「半日の放浪 高井有一」
息子の家族と暮らす老後。
これより良い解決策は
なかったと思っている。
私と息子と双方に対する
妻の気遣いには、感謝している。
それなのに、
自分の持ち物を無体に
取上げられたような
虚しさに加えて、
憤りまで湧くのは何故…。
「力道山の弟 宮本輝」
二十年前、
亡くなった父の手文庫の中から
見つけた「力道粉末」の袋。
それは少年の日の「私」が、
大道芸人から騙されて
買わされたものだった。
「私」は、父が十年、
自身が二十年保存してきた
その袋を、灰皿の中で
燃やす決意をする…。
時代が新しくなると、
小説も変容します。
これまで考えられなかった
素材を使った作品が登場します。
深沢七郎は「安楽死」を素材にして、
おかしみと悲しみと
ブラックユーモアの混在したような
作品を創り上げ、
尾辻克彦は
脱糞小説とでも言うべき作品を発表し、
阿川弘之は「飛ぶ思考」とでも
形容したくなる
新しい形態を編み上げています。
「極楽まくらおとし図 深沢七郎」
「ワシ」の本家の孫の
カンちゃんが、駅前の喫茶店で
「コテン」を開くのだという。
その絵の中の一枚の題が
「まくらおとし」だった。
「ワシ」も息子も、「カンちゃんは
〈まくらおとし〉などという
言葉は知らない筈だが」と
いぶかしがる…。
「出口 尾辻克彦」
小学生のとき、
学校で「大」をするのは
「女」になることと同じだった。
学校ではできず
家までこらえていた。
そのようなことを考えながら
家路を急いでいた「私」は、
下腹部に違和感を感じていた。
家までの道のりは
まだ半分ちょっと…。
「鮨 阿川弘之」
上野に帰る車中で、
「彼」はいただいた
折り詰めの鮨の扱いに困惑する。
到着後、
夕食の約束があったからだ。
しかし「彼」は食い気に負け、
一つだけ口に入れてしまう。
残った分の処置をどうするか、
「彼」は車中で
空想をめぐらせる…。
古いものも決して忘れ去られて
しまったわけではありません。
時代物も戦争物も健在です。
それでいながら、
隆慶一郎と宮部みゆきは
単なる時代物ではなく、
それぞれ劇画調の時代活劇と
巧妙な構成の時代ミステリを
完成させています。
大城立裕は故郷・沖縄を舞台にした
軽妙ながらも「生きる」意味を問う
作品を創り出しました。
「慶安御前試合 隆慶一郎」
「鯉が泣いています」 ある日、
湖畔に蹲っていたお了が、
突然そう云ったのだ。
しかも指さしている。
何を馬鹿な、と思いながら、
細そりとした
指の美しさに惹かれて
池の中を覗きこんだ平助は、
そこに確かに
泣いている鯉を見た。…。
「神無月 宮部みゆき」
深川の一膳飯屋で
岡っ引きが一人、
酒を飲んでいる。
岡っ引きは毎年神無月の
一夜だけ現れる
押し込み強盗のことを
考えている。
そしてある長屋では、
男やもめが幼い娘のために
お手玉を作っている。
全く関わりのない
二人の男は…。
「夏草 大城立裕」
砲弾の雨が降り注ぐ沖縄。
娘と息子を失った「私」は、
妻と二人きりで彷徨っていた。
食糧も尽きた。
死んだ一人の兵士の
腰元を見ると、
そこには一個の手榴弾が。
「私」はその手榴弾を掴む。
これだけの重みがあれば
確実に死ねる…。
当然、新しい時代の新しいテーマも
登場しています。
若者たちの理由のないいらだちを
取り上げた佐藤泰志の作品は、
世相を見事に反映しています。
山田詠美の
「若者の貧困」をテーマにした作品は、
現代にも通じます。
中島らもはその時代の
流行やサブカルチャー(今となっては
レトロ感が漂うものばかりですが)を
パッチワークのように集積させて
独特のホラー作品を完成させています。
「美しい夏 佐藤泰志」
光恵は口を利かなかった。
秀雄は喉が渇いた。
軽々しく謝ることはないわよ。
光恵はむしった草を
左手の人差し指に
何重にも巻きつけながらいった。
「あんたが何を苛立っているのか
わからないのよ」。
秀雄にも
うまく説明できなかった…。
「ひよこの眼 山田詠美」
転校してきた幹生の眼は、
「私」になぜか
懐かしさを感じさせた。
その原因が何であるか
わからぬまま、
幹生のことが好きなのだと
「私」は周囲から誤解を受ける。
やがて文化祭の実行委員に
「私」と幹生が選ばれ、
二人は接近していく…。
「白いメリーさん 中島らも」
巷間に流布している都市伝説を
レポートする
フリーライターの「私」は、
娘の由加から聞いた
「白いメリーさん」の噂に
興味を覚える。
早速、由加の友達数人から
目撃談を聞き取り調査するが、
その後、由加の様子がおかしい。
ある夜…。
そして、短編小説の面白さを最大限に
感じさせてくれるのがこの二篇です。
開高健はまるで
長編小説を読み終えたかのような
充足感を与えてくれます。
北村薫の一篇は、
本書中の最高傑作です。
行間から登場人物の書かれざる思いが
溢れ出てくるような作品です。
両作品とも、
初読の際は何を語っているのか
理解できませんでした。
しかし十数回読み返し、
初めてその深い味わいを
愉しむことができました。
これぞ短編小説です。
「掌のなかの海 開高健」
汐留の小さな酒場に、
毎夜のように通った「私」は、
初老に近い「高田先生」なる人物と
知り合う。
元医師の先生は、
息子がスキューバ・ダイビングで
行方不明となって以来、
船医として息子が眠る
海の守として
生きているのだという…。
「ものがたり 北村薫」
大学受験のために
七日間上京していた妻の妹・茜が
今日帰るという。
TVの番組製作に携わる耕三は、
この間ずっと仕事続きで
顔を合わせていなかった。
耕三は朝食を食べながら
茜の話を聞くが、
茜は自分の考えた物語を
話し始める…。
この時期、世の中はバブルに浮かれ、
そして弾け飛んだ時代でした。
激動の昭和が終わり、
沈滞の平成が
始まった時代とも言えます。
成長が終焉を迎え、
誰もが予想しなかった
長引く不況の開始の時代でもあります。
そうした世相を作家たちは
鋭敏にかぎ取ったのか、
それとも意図的な編集が行われたか、
総じて明るくない作品が多い印象です。
日本文学はまさしく
内省の時代に入ったのです。
戦争の時代に次いで、
日本文学の
大きな転換点だったのかも知れません。
〔本書収録作品一覧〕
1984|極楽まくらおとし図 深沢七郎
1984|美しい夏 佐藤泰志
1985|半日の放浪 高井有一
1986|薄情くじら 田辺聖子
1987|慶安御前試合 隆慶一郎
1989|力道山の弟 宮本輝
1989|出口 尾辻克彦
1990|掌のなかの海 開高健
1990|ひよこの眼 山田詠美
1991|白いメリーさん 中島らも
1992|鮨 阿川弘之
1993|夏草 大城立裕
1993|神無月 宮部みゆき
1993|ものがたり 北村薫
(2022.11.24)
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