2023年の頃は本当はもう…
「トンネル」
(デュレンマット/増本浩子訳)
(「失脚/巫女の死」)
光文社古典新訳文庫
「二十四歳の男」は、
いつもの列車に乗り込んだ。
しかし列車が
いつものように入った
トンネルが、
いつもと比べて異常に長いことに
彼は気づく。
だがそれを訴えても
誰も相手にしない。
彼は車掌長とともに
運転席へと侵入するが…。
デュレンマットなる作家を
初めて知りました。
不思議な作品です。
主人公は名前も与えられていない
「二十四歳の太った男」。
「男」は異常に気づくのですが、
まわりの客も、車掌も、
「男」の訴えをまったく意に介しません。
車掌長は職務柄、
「男」とともに
確認のための行動を起こすのですが…。
実は読んでいる私自身も、
「列車は下降している」
「列車を止めろ」という「男」の訴えに
疑問を持っていました。
なぜなら冒頭部分で
「男」の異様さがこれでもかとばかり
綴られているからです。
「自分の肉体にある穴を
ふさぐことを好んでいた」し、
「口には葉巻をくわえ、
普通の眼鏡の上にサングラスをかけ、
耳には綿栓を詰めていた」のですから、
およそまともとは思えません。
ゆえに、周囲の状況の変化ではなく、
「男」の発言の方が
「異常」と感じられるように、
本作品は設計されているのです。
車掌長と「男」が運転席にたどり着くと、
運転手は行方不明、
過去に最高時速105キロしか
出していない列車の速度は
すでに150キロに達し、
どこかに向けて「下降」していることが
明らかになるのです。
神経質もしくは精神異常の男の物語かと
思っているうちに、
筋書きはいきなり緊迫度を増し、
シュールな世界へと
すでに飛び込んでいたのです。
もちろん何かの寓話でしょう。
手がかりは「男」の次の台詞でしょう。
「僕たちがコンパートメントに
坐っていたときにはもう、
すべてが
おしまいになっていたのに、
それに気づいていなかったんだ」
「まだ何も変わったところは
ないような気がしたのに、
そのときは本当はもう、
僕たちは深みへと落ちていく
穴の中に
入り込んでしまっていたんだ」。
硝煙と血の匂いが
一年近く立ちこめている国があり、
自国の国境線を広げようと
周辺地域に緊張をもたらす国があり、
自国民を飢えさせる一方で
大量殺戮兵器開発に勤しむ国があり、
世界は今まさに混迷に包まれています。
しかしそれを「異常」と
しっかり感じている人間が、
どれだけいるのか心配になります。
「まだ何も変わったところは
ないような気がしたのに、
2023年の頃は本当はもう…」と、
後から振り返るようなことが
来ないことを祈っています。
〔作者デュレンマットについて〕
フリードリヒ・デュレンマット
(1921-1990)は、
スイス生まれの作家です。
グロテスクな誇張表現を用いて
現代社会の矛盾や行き詰まりを描いた
喜劇的作品によって、
その文学的地位を確立、
劇作家、推理作家、エッセイストとして
戦後に活躍しました
(ドイツ語で作品を書いているため、
本サイトでは「ドイツ語圏の文学」の
カテゴリーに入れています)。
日本では長らく
その名が知られていませんでしたが、
近年出版が相次いでいます。
本書のほか、
ハヤカワ・ミステリ文庫から「約束」が、
鳥影社から戯曲集が全三巻で
刊行されるなど、注目されています。
(2023.1.26)
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