断言できます。本作品は「長編小説」です。
「彼岸過迄」(夏目漱石)新潮文庫

流しの方はからりと片づ付いて、
小桶一つ出ていない。
浴槽の中に一人横向になって、
硝子越に射し込んでくる
日光を眺めながら、
呑気そうにじゃぶじゃぶ
やってるものがある。
それが敬太郎と同じ下宿にいる
森本という男だった…。
「風呂の後」
冒頭には、粗筋代わりに第一篇の
「風呂の後」の一節を抜き出しました。
夏目漱石の後期三部作といわれる
「彼岸過迄」「行人」「こころ」。
その出発点である本作品は、
六篇の短篇を集めて
一つの長編小説とする手法
(つまりは連作短篇集)を用いています。
〔本作品の構成〕
「風呂の後」
「停留所」
「報告」
「雨の降る日」
「須永の話」
「松本の話」
(「結末」)
視点と文体が変化しながら、
各章が一個の独立した短篇としても
成り立っています。
事実、鈴木三重吉の選んだ
「現代名作集第一編」には、
「須永の話」が独立した短編として
収録され、
「雨の降る日」もまた独立して
文集「色鳥」に収録されているのです。
では、本作品は長編小説ではないのか?
そんな疑問が
どうしてもつきまといます。
登場人物は共通していて、
一つの流れをつくっているのは
確かです。
〔主要登場人物〕
田川敬太郎
…主人公。
大学卒業後、職を探している。
森本
…敬太郎と同じ下宿に住んでいた青年。
家賃を滞納し、夜逃げ。
須永市蔵
…敬太郎の友人。敬太郎から
職探しについて相談される。
田口要作
…須永の叔父。
敬太郎に奇妙な仕事を依頼する。
田口千代子
…要作の長女。
須永とは従妹にあたる。
田口百代子(ももよこ)
…要作の次女。千代子の妹。
田口吾一
…要作の息子。千代子・百代子の弟。
高木
…百代子の友人の兄。
松本恒三
…敬太郎が田口から命じられた
探偵の対象者。高等遊民。
御仙
…松本の妻。
宵子
…松本の五人の子どもの末っ子。
三女。2歳で夭折。
咲子・重子・嘉吉
…松本の子ども。
長女(13歳)、次女(9歳)、次男(7歳)。
このほかに長男(11歳)がいる
(名前は与えられていない)。
作
…須永の家の使用人。19歳の娘。
六篇を貫く筋書きがあるかといえば、
決して明確に存在するわけでは
ありません。
また、作者・漱石が
投影されている人物は
須永市蔵なのですが、
彼が主人公ではないのです。
本作の主人公は、
間違いなく敬太郎なのです。
第一篇では、
敬太郎が自信と森本の人柄や性格、
考え方や生き方を比較し、
学問を修めた自分の、
人間社会における価値について
自問自答しています。
第二第三篇では、
田口という人物との邂逅から、
社会の中で確実に地位を得ている
人間の有り様(それがいいか悪いかは
別として)を学び取っています。
千代子は敬太郎に、
松本が雨の日に
来客を断っている理由を話す。
松本には五人の子どもがあり、
千代子は当時二歳の
末っ子・宵子を
とても可愛がっていた。
ある雨の日、
松本が来客に対応していた間に、
宵子は急にぐったりとして…。
「雨の降る日」
第四篇では、やや毛色が異なり、
漱石自身の五女・雛子が
1歳で急死した状況を、
松本一家に仮託し、
その気持ちを表したような
一節となっています。
第五篇は本作品の肝であり、
学問を修めたがゆえに苦悩する
文明人の姿、
つまり漱石自身の魂の有り様が、
須永の告白として描出されています。
須永の母は遠い昔、
千代子を息子の嫁にくれるよう
田口夫妻に頼んでいた。
しかし須永は、
自分とは性格の正反対な
千代子との結婚は
考えていなかった。
ある夏、須永は田口家と一緒に
鎌倉の別荘へいく。
そこには好青年・高木がいて…。
「須永の話」
「自分はどうして
人に嫌われるのか
その理由を知りたい」。
須永は叔父の松本に尋ねる。
松本は、彼の出生の秘密、
つまり母の実子ではないこと、
実母は出産後間もなく
亡くなったことを話す。
須永は当てのない旅に出る
決意をする…。
「松本の話」
そして最後の第六篇では、
松本から見た須永の精神、
つまり他者から見られたことを想定した
漱石自身の人間性を示すことにより、
自身の心を客観的に捉えて
開陳しているのです。
確かなことなどいえませんが、
本作品を再読したかぎり、
漱石は執筆時、
富国強兵に走る日本の文明人として、
明治の時代の文筆家として、
大病から生還した一人の人間として、
いくつもの悩みを抱えていたのでは
ないかと思います。
それらを一つにまとめることなど
到底できないほどの
苦悩であったのだと思われます。
だからこそ、
完成された一つの長篇として
編み上げることが叶わず、
新しい文学的手法としての
「連作短篇集」という形でしか
表現のしようがなかったのではないかと
思われるのです。
ともすれば、
「須永の話」にばかり焦点が集まり、
本作品を一つのものとして
捉えようとしない書評が
散見されるのですが、
これだけは断言できます。
本作品は紛れもなく「長編小説」です。
そして、一般的には決してその評価の
芳しい作品ではないのですが、
じっくりと味わえば、
やはり漱石の傑作であることが
確認できるのです。
(2023.3.27)

【青空文庫】
「彼岸過迄」(夏目漱石)
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