新潮文庫「飢餓同盟」における二つのヴァージョン
「飢餓同盟(1970年版)」(安部公房)
新潮文庫

この町自体が、
まさに一つの巨大な病棟だ。
どうやら精神科の医者の
出るまくなどでは
なさそうである。
傷だらけになった飢餓同盟に、
せめて繃帯のサービスくらいは
してやるがいい。
正気も狂気も、
いずれ魂の属性にしか
すぎない…。
昨日取り上げた安部公房の「飢餓同盟」。
新潮文庫から出ているこの本を、
私は2冊持っています。
表紙はまったく同じであり、
区別はありません。
しかしこの装幀の文庫本の
第30刷から第32刷までと、
第33刷以降の版では、
文章が大きく異なるのです。

本作品は
1954年に講談社から書き下ろし出版
(これが初版)されたのですが、
1970年に新潮文庫に文庫化される際には
大幅に改訂されたもの
(こちらが改訂版)が刊行されたのです。
つまり、本書には初版と改訂版の
2種類が存在しているのです。
1970年に文庫化された当時は、
背表紙が水色の旧装幀であり、
それは2006年に今の装幀に変更され、
改版されました(このとき第30刷)。
その際、文章は
初版に差し替えられているのです。
ところがなぜか第33刷(2011年)から、
再び改訂版に差し戻され、
現在に至っています。
そのため、第30刷から第32刷までの
5年間に出版された文庫本のみ、
初版が掲載されているのです。
一つの作品に二つ以上の
ヴァージョンが存在するのは
何も珍しいことではありません。
改稿癖のある作家はいくらでもいます。
雑誌掲載から単行本収録へと移る際、
原稿に手を加えることも
普通にあります。
安部の場合も先日取り上げた
「終りし道の標べに」も、
初版(真善美社版)と改訂版とが
存在します。
また、
「ユープケッチャ」→「方舟さくら丸」、
「チチンデラ ヤパナ」→「砂の女」、
「カーブの向こう」→「燃えつきた地図」
のように、
改稿して長篇化させた作品もあれば、
「棒」→「棒になった男」など、
戯曲化された作品もあるのです。
本作品の場合、何が異なるか?
大きな筋書きの変化は見当たりません。
せいぜい、最終場面、
初版では医師の森四郎が花園町を
去る場面で締めくくられるのですが、
改訂版での森は、
駅に向かったのを引き返し、
診療所へ戻ります。
そして冒頭に掲げた一節に至り、
幕を閉じるのです。
しかしそれは些細な変更に過ぎません。
両者の違いを一つ一つ拾い上げるような
読み方も面倒であり、
一方を読んだ直後に他方を読んでも
その違いを
記憶にとどめることなどできず、
正確な比較ができていないのですが、
気になる箇所はいくつかありかす。
初版(第30刷)183頁、
飢餓同盟での会合での会話、
「こりゃ、なんだ、共産党かい?」に
続くやりとりが
「ぼくが革命を思い立ったのは、
花園町にはまだ共産党なんか
いなかったころなんだ。
向こうの出方一つでは、
共産党に入ってやっても
いいつもりだったんだ」。
その後、共産党についてのやりとりが
続きます。
一方、改訂版(私の所有しているのは
第37刷最新版)177頁でのそれは、
「飢餓同盟だけで、
たくさんじゃないか。
べつに、名前で、革命を
するわけじゃないんだからね」。と、
共産党自体にはほとんど触れず、
あっさりと
次の話題へと移行しています。
改訂版では、
この「共産党」に対する記述が
大きく薄れている印象を受けます。
初版執筆時の1954年当時の安部は、
共産党員でした。
しかし安部は1962年に
その共産党を除名されています。
そして1970年における改訂版作成。
安部の政治的な思想信条が、この間、
大きく変化したことが、
改訂の原因ではないかと
考えられるのです。
だとすると、改訂版こそが、
安部の最終決定稿であり、
尊重されるべきヴァージョンと
考えられます。
一方、原典版を読みたいという
読者の気持ちも当然であり、
1997年に刊行された安部公房全集には
初版が収録されています。
新潮社は全集出版と
改版・装幀変更に合わせて、
文庫本のヴァージョンを改訂版から
初版へと組み替えたのではないかと
推察されます。
しかしそれによって改訂版が
埋もれてしまうことを恐れる声が、
新潮社の内外で
起きたのではないでしょうか。
その結果、2011年の段階で、
文庫本は再び改訂版へと戻されたと
考えられます。
以上は私の単なる推測に過ぎません。
いずれにしても、
初版と改訂版の二つを
読むことができるのですから幸せです。
そうなると、
新潮文庫「飢餓同盟」第30~32刷は
今後希少価値が高まることが
予想されます。いまのうちに
古書店で見つけておきましょう。
※こうしたネタが、
「ビブリア古書堂の事件手帳」に
生かされていくのでしょう。
(2023.4.11)

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