「己」とKの、壮絶な心理的「戦闘」と「遊戯」
「前科者」(谷崎潤一郎)
(「潤一郎ラビリンスⅧ」)中公文庫
己は前科者だ。
そうして而も藝術家だ。
己のあの忌まわしい
破廉耻罪が暴露して、
いよいよ監獄へ送られた時、
平生己の藝術を崇拝して居た
世間の奴等は、
どんなにびっくりしただろう。
せめて犯罪の性質が、
女にでも関係がある…。
谷崎潤一郎の犯罪小説の一篇です。
「己」なる芸術家の告白が
延々と続きます。
まるで谷崎自身の弁明を
聞いているような錯覚を
おぼえるのですが、
谷崎は監獄へ送られていませんので、
もちろん創作です。
罪に対する弁解というよりは、
悪質な開き直りに近く、
谷崎の文学に
接したことのない方が読めば、
「なんだこの小説は!?」と
怒り出すこと間違いありません。
〔登場人物〕
「己」
…若手の天才的画家。
性格はだらしなく、
自らを悪人と自覚している。
村上
…「己」の友人。
収監された「己」に手紙を書く。
K男爵
…「己」の芸術を理解する同い年の貴族。
「己」からいつも無心される。
本作品の味わいどころ①
溢れ出る谷崎の独特な芸術観・人間観
性格に致命的な欠陥がある天才画家。
「己」のこうした設定は、
以前取り上げた「鮫人」の服部や、
「襤褸の光」のAなど、
谷崎自身が好んで使う設定です。
ここに谷崎特有の
「芸術観」「人間観」が現れています。
私たちは
その人間のなしえたこと以前に、
人間としていかにあるかを
まず第一に見ようとします。
そして過ちを犯した人間に対して、
「そのようなことをする人間の
創り上げたものなど」と、
過去の業績まで否定してかかるのが
一般的な感覚でしょう。
谷崎は、
それに対して異を唱えているのです。
芸術と人間性とは別物であり、
罪を犯したことについては
いくら非難されてもかまわないが、
芸術は本物であるからそれを認めろ、
というものです。
読み手からすれば、その論旨がいささか
乱暴に聞こえてしまうのですが、
延々と続く述懐を聞いているうちに
「そうかも知れない」と思わせるほどの
説得力に富んでいるのです。
芸術家、それも小説家には
奇行を伴う方が
少なからずいるのですから、
芸術家とは、
得てしてそういうものなのでしょう。
脳の大部分が創作に費やされ、
道徳的判断に使用される部分は
一般人よりも
かなり小さいのかも知れません。
一般人には計り知れない、
谷崎の「芸術観」「人間観」を、
まずは味わうべきです。
本作品の味わいどころ②
どこまでが本音、どこからが創作
ただし、
そうした本作品での「己」の思想の、
どこまでが谷崎自身の本音であり、
どこからが創作(フィクション)なのか、
それを見分けるのも
本作品を読む味わいの一つといえます。
「己」は幾度となく
Kに無心するのですが、
いろいろな資料を読む限り、
谷崎自身に
そのような性癖はなかったようです
(太宰にはあったようですが)。
だとすれば、「己」の申し立ては、
すべてが谷崎の本音ではなく、
どこかからは創作であるはずです。
その境目を見分けようとする
作業自体を、
次にしっかりと味わいましょう。
本作品の味わいどころ③
「己」とKの心理的な「戦闘」と「遊戯」
そして筋書きらしい筋書きは
ないに等しいのですが、
「己」の述懐の中で描かれているのは、
実は「己」とKの、
壮絶な心理的「戦闘」と「遊戯」なのです。
もっともらしい理由をつけて
金を貸して欲しいと頼む「己」に対し、
さらにもっともらしい理由をつけて
それを拒むK。
「己」は金を借りること以上に、
Kを打ち負かしたいのであり、
Kは金を貸すこと自体は
やぶさかではないものの、
「己」の理屈に負けるのが
嫌なだけなのです。
したがって、
お互いに「論破」しようとする
心理的「戦闘」が始まるのです。
それでいながら、お互いに
落とし所を探る「遊戯」でもあるのです。
この人間の相矛盾した心の動きこそ、
本作品でもっとも味わうべき肝であり、
十分に堪能すべき
味わいどころとなっているのです。
本作品は本書「潤一郎ラビリンスⅧ」に
収録されていますが、
そのサブタイトルは
「犯罪小説集」となっています。
しかしながら本作品は
犯罪小説でも探偵小説でもありません
(谷崎に純粋な犯罪小説・探偵小説は
ないのですが)。
一種の心理劇なのです。
噛めば噛むほど味の出る、
谷崎の逸品です。
ぜひご賞味あれ(ただし初心者お断り)。
(2023.5.4)
〔「潤一郎ラビリンスⅧ」〕
前科者
柳湯の事件
呪はれた戯曲
途上
私
或る調書の一節―対話
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