「天使の蝶」(レーヴィ)

その正体は分厚い「暗喩」のヴェールに隠されている

「天使の蝶」(レーヴィ/関口英子訳)
(「天使の蝶」)光文社古典新訳文庫

「天使の蝶」光文社古典新訳文庫

「なんの動物の骨だね?」と
フランス人が尋ねると、
「わからん」と
イギリス人が応じた。
「こんな骨は見たこともない。
先史時代の鳥類のようだ。
それにしても、こんな突起が
あるものといったら……。
綿密に分析する
必要があるだろう」…。

アウシュビッツ収容所から生還した
作家プリーモ・レーヴィ
短篇集の表題作です。
作中の人物・エンクの台詞から、
作品の時代は1946年、
つまり第二次世界大戦終結後、
舞台はドイツであることがわかります。
戦時中のドイツで何やら怪しげな、
軍による研究に従事していた
レーブ教授の研究の痕跡を
調査した顛末が描かれているのですが、
一読しただけでは
さっぱりわかりません。
本作品も何かを象徴的に表した
寓話なのでしょう。

〔主要登場人物〕
フランス人…調査隊の一員。軍人。
イギリス人…調査隊の一員。軍人。
ロシア人…調査隊の一員。軍人。
アメリカ人…調査隊の一員。軍人。
ヒルベルト
…調査隊の採取したサンプルを
 分析した学者。
スミルノフ…化学者。
ルデュック…軍事裁判所員。
大佐
…調査を命じた人物と考えられる。
レーブ…ドイツの科学者。
ゲルトルート・エンク
…レーブ教授のアパートの
 向かいに住んでいた少女。

調査が行われていたのは
レーブ教授が密かに行っていた
研究(の痕跡)についてです。
それはドイツ軍の指示によって
成されていたことが示されています。
エンクが父親から言い聞かされた言葉
「あの中で起きていることには
首を突っ込むな。
わしらドイツ人は、あまり多くを
知らないほうが身のためなんだ」、
そこからはかなり危険な、
非人道的な行為の匂いがしています。
ドイツの一般人も、
それに薄々気づいていながらも、
自らの身の安全のため、
知らないふりをしていたことが
うかがえます。

その研究の具体については
明らかにされていません。
かいつまんでいえば、
人間も極限まで生きながらえると、
完全変態し、
理想の姿になるというものです。
しかし実態はどうだったのか?
これについてもエンクの証言からしか
情報が与えられていません。
実験を行っていた部屋には、
はじめ四人の身動きしない人間が
確認できたのが、
後には四匹のケダモノの姿が
見られたというのです。

このレーブ研究の
サンプル採取を担った調査隊チームの、
メンバー各員に
名前は与えられていません。
国籍だけが示されているのです。
これら4カ国は
大戦の欧州の戦勝国です。
しかも調査には
軍事裁判所が関わっているのです。

ここに描かれているのは、
大戦戦勝国が調査検証している
ナチス・ドイツ軍の悪行であることは
疑いようがありません。
しかしその実像は
全く見えてこないのです。

細部にわからないことが多すぎます。
エンクの目撃した四人の人間は
何を表しているのか?
その四人はハゲタカのようなケダモノに
変化した(させられた)のですが、
そのケダモノは何の暗喩なのか?
調査隊が採取したそのケダモノの骨には
謎の突起があったのですが、
「こんな突起があるものといったら…」
それはいったい何なのか?
研究中に度々アパートに届けられた
「軍需品」とは何のメタファーなのか?
アパート周辺の住民たちは、
対戦終了後、そのケダモノたちを
亡き者にしたのは
いったい何を描出しようとしたのか?

その中心部に、
どす黒くておぞましい醜悪なものが
隠されている気配は
確かに感じられるのですが、
その正体は分厚い「暗喩」のヴェールに
隠されて輪郭すら判然としないのです。
そしてその表面を、
ユーモアの衣がさらに覆っています。
作者・レーヴィは、
心の底から吐き出したいものが
あるにもかかわらず、
それを丹念に幾重にも厳重に
紙に包んた状態で
書き表したかのような印象を受けます。

その「吐き出したいもの」を、
生涯かけても作者はそのすべてを
吐き出せなかったのかも知れません。
レーヴィは戦後40年以上経過した
1987年、自宅アパートの階段から
転落して死亡しています。
しかしその状況は、
事故としては不自然な点が多く、
自殺とする説が一般的です。
苦悩をその身に抱えたまま
命を絶った彼は、
墓碑に自らの名前だけでなく
アウシュビッツでの自身の囚人番号も
記させています。

人間の本質に正面から向かい合い続けた
作家・レーヴィ
時間をかけてその著書と
付き合っていきたいと思います。

〔収録作品一覧〕
ビテュニアの検閲制度
記憶喚起剤
詩歌作成機
天使の蝶
《猛成苔》
低コストの秩序
人間の友
《ミメーシン》の使用例
転換剤
眠れる冷蔵庫の美女―冬の物語―
美の尺度
ケンタウロス論
完全雇用
創世記 第六日
退職扱い

〔現在流通しているレーヴィの本〕
「アウシュヴィッツは終わらない」
「休戦」
「溺れるものと救われるもの」
「周期律 新装版」
「プリーモ・レーヴィ全詩集」
「リリス」
近年、
いくつも翻訳本が登場しています。
読んでみたいと思います。

(2023.5.8)

JasonによるPixabayからの画像

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