「死」と「生」「性」が痛々しいまでに対比され
「生物祭」(伊藤整)
(「百年文庫069 水」)ポプラ社

「生物祭」(伊藤整)
(「日本近代短編小説選 昭和編1」)
岩波文庫

それは北国の春であった。
父の病気をとり巻いて
私を育てた北国の自然は
春の真盛なのだ。
空気は暖くよどんで、
黒い掘返された畑の間の
林檎の花や牛や馬や鶏などを
暖めていた。
それは頭痛持ちの母を
悩ます期節であり、
私と弟が…。
美しくも切ない物語に出会いました。
いや、筋書きというほどのものはなく、
心に見えた風景を
淡々と描写したような文章です。
何について書かれてあるのか?
「死」と「生」と「性」についてです。
「死」について。
「私」は危篤の報を受け取って、
病床にある「父」の元へと
帰ってきているのです。
「父」は命の助かる見込みのない
病に取り憑かれ、
すでに二年間闘病生活を送り、
何度も死の淵を彷徨っているのです。
「母」は看病に疲れ、
生気のない顔で日々を送っています。
ゆえにその二人を見ている「私」にも、
まったく希望は見いだせないのです。
そこに救いはありません。
「私の感情も、目の前にありながら
どうしても掴むことのできない
苛立たしい正体の不確かな春の方に
溺死者のように手を差伸べ、そして
絶対にそれから拒まれているのだ」。
「生」について。
季節は春。北国の遅い春なのです。
遅い分だけ、すべての生あるものが
勢いよくその存在を主張する
春なのです。
本作品には、そうした「生」の描写が
数多く記されています。
しかし、その描写のあとには、
それをことごとく否定する
「私」の感情が続くのです。
「李の枝の繁みは、
細かい紙片を集めたような
真白い花をつけ、
風のない日光の中に
ひっそりと咲いていた」。
それに続く一文は、
「その匂いが私の頭を重くした」。
そして冒頭に掲げた
一節へとつながるのです。
動かしがたい事実として迫る
「父」の「死」。
その背景を彩っているのは
春の命の芽吹きなのです。
それが「私」の精神を
不安定にしているのです。
「私を呼びもどしたのは
父の病気であった。
それなのに、
私の這入って来たところは、
人を狂気にするような
春の生物等の華麗な混乱であった」。
そして「性」について。
「性」は「生」の延長線上に
あるものとして描かれています。
命を謳歌することは、
「性」の香気をまき散らすことでも
あるということでしょう。
「桜は咽せかえるように
花粉を撒きながら
無言のうちに生殖し生殖し
そして生殖している」。
「看護婦等の肉体は
粘液のようなものを
唇や腰部から分泌する」。
それが「私」を
さらに苛立たせているのです。
「不幸な状態にある者の僻み」と
いってしまえばそれまででしょう。
しかし本作品には
これでもかというほど、
「死」と「生」「性」が
痛々しいまでに対比され、
陰影鮮やかに表現されているのです。
さて、作者・伊藤整は、はじめ
詩人として文壇に立ったのですが、
その後、小説を志します。
ジェイムズ・ジョイスや
ヴァージニア・ウルフらの
「意識の流れ」(人間の内面を描くことに
着目した小説技法)の影響による
「新心理主義」を提言し、
いくつかの実験的作品を発表しました。
本作品はその一つであり、
伊藤の初期の傑作とされています。
本作品から何を読み取るか?
読み手の裁量に任されていると同時に、
読み手の人間性と教養の多寡が
如実に表れる試験紙のような作品です。
短い作品なのですが、
一読しただけでは
そのすべてを掴むことはできません。
時間をおいて再読し、
何度も挑んでみたいと思います。
〔「百年文庫069 水」〕
生物祭 伊藤整
春は馬車に乗って 横光利一
廃市 福永武彦
〔「日本近代短編小説選 昭和編1」〕
施療室にて 平林たい子
鯉 井伏鱒二
キャラメル工場から 佐多稲子
死の素描 堀辰雄
機械 横光利一
闇の絵巻 梶井基次郎
ゼーロン 牧野信一
母たち 小林多喜二
生物祭 伊藤整
あにいもうと 室生犀星
いのちの初夜 北条民雄
築地河岸 宮本百合子
虚実 高見順
家霊 岡本かの子
待つ 太宰治
文字禍 中島敦
〔伊藤整の作品について〕
日本文学に
多大な足跡を残した伊藤です。
その作品は一時期、
店頭から姿を消しましたが、近年、
評論を中心に、
いくつか復刊しています。
「女性に関する十二章」は、
1974年に文庫化され、80年代には
すでに絶版化していましたが、
2021年、単行本として復刊しています。
小学館の企画による、
入手困難な昭和の名作を
紙と電子で同時発売する新レーベル
「P+D BOOKS」からは、
「若い詩人の肖像」「変容」の2作品が
単行本として発売されています。
なんと平凡社からは2021年、
「伊藤整 日記」全8巻が
刊行されています。
電子書籍も以下のように
いくつか見られるようになりました。
「氾濫」
「太平洋戦争日記(一)」
「太平洋戦争日記(二)」
「太平洋戦争日記(三)」
評価されるべき作家が、
しっかりと再評価されるように
なってきています。
喜ばしい限りです。
(2023.5.10)

【百年文庫はいかがですか】
【今日のさらにお薦め3作品】
【こんな本はいかがですか】