読み手もまた「街」と「現実世界」の間を浮遊する
「街とその不確かな壁」(村上春樹)
新潮社

きみがぼくに
その街を教えてくれた。
その夏の夕方、
ぼくらは甘い草の匂いを
嗅ぎながら、
川を上流へと遡っていった。
銀色の魚たちを眺めた。
二人ともしばらく前から
裸足になっていた。
ぼくは十七歳で、
きみはひとつ年下だった…。
村上春樹の新作長篇
「街とその不確かな壁」を
読み終えました。
話題作は時間をおいて、
話題が去ってから
読むことにしてあるのですが、
今回は読みたいという誘惑に
あらがうことができませんでした。
なぜなら、本作は
私が学生時代に読んで
深い感銘を受けた村上作品
「世界の終りと
ハードボイルド・ワンダーランド」と
深いつながりがある作品と
聞いたからです。
すでに出版社の提供している情報でも
明らかであるように、
村上がその創作活動の初期に書いた中篇
「街と、その不確かな壁」は、
村上自身が「失敗作」と感じたため、
これまで単行本収録が
見送られてきました。
そしてその作品を再構成して書かれた
長篇作品が、
「世界の終りと―」だったのです。
「世界の終りと―」が、
「世界の終り」と
「ハードボイルド・ワンダーランド」の
二つの筋書き、つまり二つの世界が
一章ごとに現れ、次第に接近、交錯し、
最後は一つに収束するという
画期的な構成でした。
それに対して本作品は
第一部と第三部が「街」、
第二部が「現実世界」
(「現実」といっても、
限りなく「異世界」に接しているような)
という設定であり、
「世界の終り―」とは
異なる味わいがあるのです。
〔「街」での主要登場人物〕
「私」
…語り手。「街」では「夢読み」として
図書館に勤務する。
「影」
…「私」から引き剥がされた「私」の影。
本体から引き剥がされてからの
命は短い。
「君」
…図書館に勤務する少女。
「私」の「夢読み」のサポートをする。
「イエローサブマリンの少年」
…第三部の「街」に突如現れた少年。
「私」に接近する。
門衛
…「街」に唯一ある「門」の番人。
厳格である。
単角獣
…「街」の内側にだけ生息する獣。
冬になるとその多くが命を終える。
〔「現実世界」での主要登場人物〕
「ぼく」
…語り手。
第一部冒頭、17歳の頃の語り手。
「私」
…語り手。45歳の頃。
それまで勤めていた出版取次会社を
辞め、福島県Z町図書館長となる。
「きみ」 …「ぼく」が出会った少女。
自身は「影」であり、本体は
「街」に取り残されていると語る。
子易辰也
…福島県Z町図書前館長。
男性であるのに
スカートをはいている。
若い頃、最愛の妻と子を亡くした。
添田
…司書の女性。有能で、
図書館運営を切り盛りしている。
「私」を除いた
ただ一人の図書館正職員。
M**
…「イエローサブマリンの少年」。
学校へは行かず毎日図書館に通い
本を読み続ける少年。
サヴァン症候群らしく、
一度読んだ本のテキストは
そのすべてを記憶する。
家族や他人との交流ができない。
「彼女」
…駅前のコーヒー店の店主の女性。
30代。
本作品のあまたある
味わいどころの一つは、
この個性溢れる登場人物たちの
魅力でしょう。
村上作品にしては多くの、
そして650頁に及ぶ大長編にしては
きわめて少ない登場人物たちは、
一癖も二癖もあり、
具体的な実像を伴って
読み手の心に迫ってきます。
主人公は、「ぼく」「私」「影」と
書き分けられていますが、
17歳と45歳、「街」と「現実世界」で
明確に二つに区別されていて、
それでいてその垣根は不確かです。
さらに、それらは
それぞれ別個のものでもあり、
同時に同一でもあるのです。
他の村上作品同様、
主人公は「失われたもの」を
探し出そうとするのですが、
それは決してたどり着けない
ものなのです。
たどり着けないとわかっていながら
求め続ける。
その姿は、読み手自身の一部でもあり、
読み手の憧れる姿でもあり、
それが村上作品の「主人公」の
魅力となっていると考えます。
この3つの形態を取る(ように見える)
主人公を、
まずは十分に味わうべきです。
その主人公が探し求めているのが、
姿を消してしまった「きみ」なのです。
こちらも村上作品特有の
(主人公にとっての)「完璧な女性」です。
こちらについても
読み手は無意識のうちに、
自身の思い出の中から
そのような女性を探しだし、
重ね合わせようと
してしまうのでしょう。
その「きみ」は「君」と同一なのか、
それとも「きみ」と「君」は
「本体」と「影」の関係なのか、
判断の難しいところですが、
そのどちらも幻想的な光を帯びて
読み手の網膜に
刻まれていくことになります。
そして「現実世界」の45歳の「私」が
心を引かれる女性「彼女」の存在も
気になるところです。
村上作品の場合、
個人名が与えられていない人物ほど
重要な立ち位置に
存在しているからです。
「彼女」は「きみ」・「君」と
関わりがあるのか、
主人公にとって
どんな役割を果たしているのか、
目が離せないところです。
この、主人公が関わる
「女性」たちの魅力を、
次にしっかりと
味わっておくことが大切です。
主役の男女に続く脇役として、
筋書きのキーマンとなっているのが
「イエローサブマリンの少年」です。
「私」「君」と同じように、
「街」と「現実世界」の両方に登場します。
彼が、
「現実世界」と「街」を繋ぐとともに、
「私」の「実体」と「影」をも
繋いでいきます。
不思議な存在感を放つ
この少年のもつ味わいを、
十分に噛み締めることが
本作品の理解につながるはずです。
もちろんそのほかの登場人物たちも
味わい深い面々ばかりです。
「門衛」はカフカの「掟の前で」の
「門番」に似た雰囲気を
醸し出しています。
図書館関係者で名前を与えられている
二人のうち、
添田は現実の堅実な人物として
描かれていますが、
子易は多くの謎を秘めた人物であり、
読み進めていくとその「謎」が
次第に明らかになります。
筋書を円滑に進めるための
「駒」に過ぎない人物・大木
(「私」のもと勤務先の後輩であり、
福島の図書館への再就職を取り次いだ)
さえも、ただ者ではない
オーラを放出しています。
これら登場人物を
丹念に味わうことにより、
読み手もまた「私」の住む
「壁に囲まれた街」や、
「(異世界に接している)現実世界」の間を
浮遊し、作品世界に
浸りきることができるのです。
ただし、「世界の終り―」のような
スリリングな展開は
期待しないほうがいいでしょう。
若い頃の作品に見られる「刺激」は
影を潜め、コクのある深い味わいに
変化しています。
より大人の読むべき作品へと
深化したといえるでしょう。
ぜひご一読を。
それも「世界の終り―」と合わせて
お薦めします。
(2023.5.15)

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