「純文学」と「大衆文学」を隔てる壁
「街とその不確かな壁」(村上春樹)
新潮社
ホルヘ・ルイス・ボルヘスが
言ったように、
一人の作家が一生のうちに
真摯に語ることができる物語は、
基本的に数が限られている。
我々は、
その限られた数のモチーフを、
手を変え品を変え、
様々な形に
書き換えていくだけなのだ…。
本書の「あとがき」の
文末付近の一節を抜き書きしました。
本作品、というよりも、村上作品全般、
さらには文学作品すべてに
いえることなのでしょう。
なぜこの一節を取り上げたかというと、
ここ数年、村上作品(それも長篇)が
出版されるたびに、
「マンネリ」だの「自己複製」だのという
否定的な見解が、
ネット上の一部に飛び交うからです。
そのような見方は間違いであり、
そこに「純文学」と「大衆文学」の
見えざる壁が存在していると考えます。
かつて「騎士団長殺し」を取り上げた際、
「村上春樹的作品構成」を、
以下のように私は表現しました。
①主人公が何かを喪失する、
あるいは喪失していたことに気付く。
②主人公がそれを探そうとして
行動しはじめるが、
幾多の困難が待ち受けている。
③敵か味方かわからない
いくつかの謎めいた存在が現れ、
主人公の行動に干渉する。
④やがて主人公は謎めいた存在の蠢く
非現実世界に
否応なしに引きずり込まれる。
⑤そして現実世界に戻ってきたとき、
世界は変わっていないようで
何かが変わっている。
本作品も、大筋では
この流れを踏襲しています。
それは「マンネリ」などではなく、
一つの主題について、
「手を変え品を変え」、
突き詰めていった結果なのです。
明治・大正の文豪に視線を送ると、
漱石なら「文化人の精神的孤独」であり、
芥川や太宰であれば
「人間とは何か」ということに
なるでしょう。
村上作品の場合、それは
「喪失と再生」ということでしょうか。
本作品を上に記した
「村上春樹的作品構成」の
テンプレートに当てはめると
以下のようになります。
①17歳の「ぼく」は、
「完全な存在」である
16歳の「きみ」を失う。
②「ぼく」は「きみ」を探し求めるが、
手がかりすらつかめないまま
「私」は45歳を迎える。
③「門衛」「子易」
「イエローサブマリンの少年」などが
現れ、「私」に影響を与える。
④「現実世界」に隣接している
「異世界」もしくは「街」の片鱗が
ちらほらと見え始め、
「私」はそれに関わらざるを得ない
状況となる。
⑤本当の形での
「現実世界」に戻ることが示され、
「私」が変化する予感が示される。
本作品において、
「喪失」は明確に描かれています。
17歳で失った「きみ」を、
「私」は45歳になるまで
ずっと「失い続けて」いるのです。
では、その解答となるべき
「再生」はどうなのか?
「きみ」は戻ってはきません。
「街」の図書館に勤務する少女「君」も、
「きみ」の代わりにはなっていません。
「街」に入り込んだ「私」は、
「きみ」と同じ面影の「君」を、
激しく求めてはいないのです。
本作品には「再生」は
盛り込まれていないようにも
感じられます。
もし作品の冒頭と終末で変容した、
つまり、二つの世界を行き来して
何か変化したものがあるとすれば、
それはおそらく「私」自身でしょう。
最終場面では、その後、
否応なく変化せざるを得ない「私」が
予感されているのです。
もし、「再生」されたのが
この「私」の有り様だとすれば、
「喪失」したものも自ずと
「本来の私」もしくは
「本来あるべきはずの私」ということに
なるはずです。
村上の初期の傑作長篇
「世界の終りと
ハードボイルド・ワンダーランド」、
それと同じ種から芽生えた本作品、
描かれている「喪失と再生」が、
明らかに異なっていると感じるのです。
「私」が失ったもの、
失い続けているものが何であり、
「私」が再生させたもの、
もしくは失ったものと引き換えに
得たものは何なのか。
それを考えることが、村上作品を
愉しむ視点といえるでしょう。
「手を変え品を変え」、
斬新な展開やあっと驚く筋書きを
読み手に提供するのは、ある意味、
大衆文学の役割でしょう。
純文学作品においては、
作家自身がライフワークとして
取り組んでいる文学的主題を、
「手を変え品を変え」、
どのように掘り下げていくかが
問われるべきだと思うのです。
もっとも、村上作品は
その展開や筋書きも
「手を変え品を変え」、
創造されるごとに刷新されています。
「純文学」と「大衆文学」を隔てる壁は
一般には高いものの、
村上春樹作品においてのそれは、
「不確か」なのかも知れません。
(2023.5.16)
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