「S・カルマ氏の犯罪」(安部公房)

いや、大人版「不思議の国のアリス」です。

「S・カルマ氏の犯罪」(安部公房)
(「壁」)新潮文庫

「壁」新潮文庫

その瞬間、
ぼくはもう一人のぼくの正態を
見破ってしまったのです。
それはぼくの名刺でした。
そう思ってみれば、
それはどう見ても
見まがうことのない名刺でした。
名刺以外のものとは
どうしたって思えない、
正に名刺そのもの…。

安部公房の最初期の短篇であり、
芥川賞受賞作でもあります。
何度目かの再読を果たしましたが、
あまりにも前衛的すぎて、
まったくわけがわかりません。
自分の名を忘れた(失った)男にまつわる
物語ですが、
名刺が自分の代わりに
出勤して仕事をしている、
胸が空虚になり、
雑誌の風景写真を飲み込む、
動物園のラクダを
飲み込みそうになったところで
私設警察官に逮捕される、
摩訶不思議な裁判が始まる、…。
それぞれが何かの
メタファーなのでしょうが、
次から次へと
不思議な世界が現れるため、
いったい何なのか、
考えようがないのです。

〔主要登場人物〕
「ぼく」(「彼」)
…語り手。「S・カルマ」という
 名前であった(らしい)。
 N火災保険資料課に勤務する
 会社員だった。
 途中から、自らを「彼」として語る。
「名刺」
…「ぼく」の名刺。
 「ぼく」として振る舞い、
 「ぼく」に反旗を翻す。
Y子
…「ぼく」の同僚の女性社員。
 タイピスト。裁判の第五の証人。
マネキン人形のY子
…マネキンがY子の姿になったもの。
 マネキン専門店のマネキンだった。
主任
…「ぼく」の上司。裁判の第七の証人。
 昼休みにカルマと
 将棋をさしていたことを証言。
法廷の委員たち
…グリーンの背広を着ている。
 金縁眼鏡の法学者二名、
 縁無し眼鏡の哲学者二名、
 鉄縁眼鏡の数学者一名で構成される。
ドクトル
…裁判の第二の証人。
 「ぼく」が診察を受けた病院の医者。
 影のように真黒。のちに
 「成長する壁調査団」の団長となる。
金魚の目玉
…裁判の第一の証人兼進行・記録係。
 病院の受付係のぎょろ目の男。
 ドクトルの助手。
私設警察官
…裁判の第三の証人。
 グリーンの背広を着た大男二名。
 「ぼく」を取り押さえた。
園丁
…裁判の第四の証人。
 動物園の小さな猫背の老人。
画家
…裁判の第六の証人。
 真白なカンバスのまま
 何かを待っている画家。
浮浪児
…裁判の第六の証人。
 プラタナス並木にいた浮浪児。
カウンターの少女
…裁判の第八の証人。食堂の少女。
 常連客の「ぼく」と顔見知り。
パパ
…「ぼく」のパパ。突然現れ、
 「ぼく」の正気を疑う。
アパートの二階の住人
…キャバレーのヴァイオリン弾き。
 肺病を患う。
マネキン人形(男)
…ショーウインドーの人形。
 Y子を捜している。
せむし男
…世界の果に関する講演と
 映画上映をする。講演をしながら
 体が反対側に反り返り、
 「はらむし」、そして
 「ロール・パン氏」となる。
ユルバン教授
…「成長する壁調査団」副団長。
 「ぼく」のパパと瓜二つの姿
 (同一人物の可能性あり)。

と、登場人物を羅列してみましたが、
これだけ見ても、
まったく理解不能だと思います。
明らかに異世界での物語、いや、
大人版「不思議の国のアリス」です。

筋書きの細部をばっさりカットすると、
残るのは、
「主人公の青年が名前を失った」
→「自身の胸の中に曠野ができた」
→「自らはその曠野の中で
 成長する「壁」となった」
ということになるでしょう。
細部を無視して
大筋だけを取りだしても、
その意味するところは
依然として藪の中です。

「名前を失うこと」は、おそらく
アイデンティティーの喪失であり、
のちの安部作品にも
幾度か登場している設定です。
その結果としての「胸の中の曠野」は
いったい何を意味しているのか?
そして「ぼく」が変化した壁は
何の暗喩か?

今日のオススメ!

実はこの作品を再び読んでみようと
思い立った理由は、
先日読んだ村上春樹
「街とその不確かな壁」から
本作品を連想してしまったからです。
村上の描いた「壁」は
主人公「私」の意識の中に展開された
「街」を取り囲む「壁」であり、
安部のそれは主人公「ぼく」の
空虚な胸(心)が取り込んだ風景
(異世界)の中で変化した自身」であり、
何やら共通項がありそうで、まったく
異なるもののようにも見えます。

安部は本作品を、
「四十時間ほど一睡もせずに
一気に書上げ」たとも証言しています。
安部自身が細部の構造など
まったく気にせず、
感覚的に書き上げたのか、
もしくは40時間という
きわめて短い時間の中で、
精緻な建造物を
天才的な能力で築き上げたのか、
私などには判断つきかねるのですが、
それでも何かが心に
突き刺さってくるのを
感じざるを得ません。

学生の頃に初読し、以来、
何度も再読しているのですが、
一向に読み解けません。
いや、読み解こうとすること自体が
無意味なのかも知れません。
主人公「ぼく」のように、
空っぽになった心に、
書かれてあることを素直に吸収するのが
本作品の
正しい読み方なのかも知れません。

〔本書収録作品〕
S.カルマ氏の犯罪
バベルの塔の狸
赤い繭
洪水
魔法のチョーク
事業

本書「壁」は、以上の3部6編からなる
オムニバス形式の作品集です。
いずれも深い味わいに満ちています。

〔村上春樹「街とその不確かな壁」〕

(2023.6.1)

KerttuによるPixabayからの画像

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