「バベルの塔の狸」(安部公房)

では、本当の「ぼく」はいったいどれ?

「バベルの塔の狸」(安部公房)
(「壁」)新潮文庫

「壁」新潮文庫

詩人である「ぼく」は、
自らの空想を
「とらぬ狸の皮」と名付けた手帳に
書き込んでいた。
ある日、P公園で出くわした
狸のような奇妙な獣は、
「ぼく」の影を咥えて逃げ去る。
影を失った「ぼく」は、
目だけ残して
透明人間になっていた…。

透明人間になる話は、
SFや漫画などには
掃いて捨てるほどあるでしょう。
透明な身体を手に入れて、
やってはいけないことを
次々に実行する…、といった
安直な展開になど
なろうはずがありません。
安部公房ですから。
連作集「壁」の中の
第二部「バベルの塔の狸」です。
第一部「S.カルマ氏の犯罪」同様、
「不思議の国のアリス」的な物語が
展開していきます。

〔主要登場人物〕
「ぼく」(アンテン)
…語り手。貧しい詩人。
 空想やプランを練ることが好き。
とらぬ狸の皮
…「ぼく」がプランや空想を
 書き留めている手帳。
とらぬ狸
…「ぼく」の影を食べた獣。
 「ぼく」の願望が実体化した(らしい)。
 バベルの塔から来た。
ダンテ狸
…バベルの塔の委員長。
ニイチェ狸・ブルトン狸・杜子春狸
…バベルの塔の狸。
エボバ
…バベルの塔唯一の人間。
 目玉銀行の管理人。
 黄色くすき透ったミイラの顔。
 四千八十二歳。

例によって、
はちゃめちゃな部分を斬り捨て、
その後の筋書きを拾い上げると、
 「とらぬ狸が迎えに来て、
 透明人間になった「ぼく」を
 バベルの塔に連れて行く」
→「バベルの塔の入塔式を行う」
→「残った目玉を目玉銀行に預け、
 意識だけの存在になるよう
 強制される」
→「拒んだ「ぼく」は反抗を試み、
 現実の世界に戻る」
ということなのです。

ここでの「透明人間」は、
「実体を失う」ということを
意味しています。
「とらぬ狸」は手帳「とらぬ狸の皮」が
実体化したものとも考えられ、
つまりは「ぼく」の空想や思考の
実体化なのでしょう。
作中で「とらぬ狸」自身が
語っているように、その本質は
「純粋な自分自身」であるはずです。

ではなぜ、「ぼく」は完全な
「純粋な自分自身」になるのを拒み、
現実へと逃げ帰ったのか?
透明人間となった「ぼく」と、
「純粋な自分自身」である「とらぬ狸」は、
いわば別人格です。
自らが消滅してしまう、
つまり「死」を迎える以上、
それを避けようとしたのだと
考えるのが自然なのですが、
それ以上のものがありそうです。

考えられるのは、「純粋な自分自身」は
決して「自分自身」ではないと
いうことでしょうか。
本来の自分から
何かを取り除いて純粋にしたのなら、
それは「自分」とは
異なるものになっているはずです。
だから「ぼく」は、「とらぬ狸」の言い分に
渋々納得しながらも、
根っこの部分では受け入れがたいと
感じていたのでしょう。

今日のオススメ!

不純物も含めて「自分」なのです。
正しいものも間違ったものも、
綺麗なものも汚いものも、
すべて含めて「自分」なのです。

現実世界に戻った「ぼく」は、
再び接近してきた「とらぬ狸」に
石を投げつけ追い払います。
しかし、
もとに戻ったのではありません。
「ぼく」はすでに
詩人ではなくなっているのです。
「命」や「実体」「影」は取り戻したものの、
詩人としての素養を
失ってしまったのです。
決してハッピーエンドではないのです。

「とらぬ狸」と出会う前の「ぼく」、
目玉だけの透明人間となった「ぼく」、
「ぼく」から生まれた「とらぬ狸」、
そして終末での「ぼく」、
どれも「ぼく」であって、
しかし同一ではないのです。
では、本当の「ぼく」はいったいどれ?

考えれば考えるほど
分からなくなります。
「自分」というものがどこにあるのか、
本当の「自分」の形は
どういったものなのか、
安部公房の作品を読む度に、
不安に駆られて仕方ありません。

〔本書収録作品〕
S.カルマ氏の犯罪
バベルの塔の狸
赤い繭
洪水
魔法のチョーク
事業

本書「壁」は、以上の3部6編からなる
オムニバス形式の作品集です。
いずれも深い味わいに満ちています。

〔関連記事:安部公房の作品〕

安部作品をぜひ読んでみてください。

(2023.6.29)

Sergei Tokmakov, Esq. https://Terms.LawによるPixabayからの画像

【「透明人間」的な小説】

【今日のさらにお薦め3作品】

【こんな本はいかがですか】

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA