「分からない」そして「何かに変身している」こと
「壁」(安部公房)新潮文庫

その瞬間、
ぼくはもう一人のぼくの正態を
見破ってしまったのです。
それはぼくの名刺でした。
そう思ってみれば、
それはどう見ても
見まがうことのない名刺でした。
名刺以外のものとは
どうしたって思えない、
正に名刺そのもの…。
「S・カルマ氏の犯罪」
安部公房の最初の前衛的代表作で、
第25回芥川賞を受賞した
「S・カルマ氏の犯罪」を含む
六篇からなる連作短編集です。
六篇は次のように配列されています。
〔本書収録作品〕
S.カルマ氏の犯罪
バベルの塔の狸
赤い繭
洪水
魔法のチョーク
事業
筋書きも登場人物も、それぞれ
全く関連するところはないのですが、
共通しているのは
「分からない」ということと、
主人公もしくは人々が
「何かに変身している」ことでしょうか。
第一篇「S.カルマ氏の犯罪」では、
主人公であり語り手である
「S.カルマ」が、
ハチャメチャな世界をさ迷い歩き、
ようやくそこから脱したかと思えば
最後は「成長する壁」へと
変身してしまいます。
その不思議な世界での顛末や
「壁」に変身したことが
いったい何を表しているのか、
さっぱり分かりませんでした。
詩人である「ぼく」は、
自らの空想を
「とらぬ狸の皮」と名付けた手帳に
書き込んでいた。
ある日、P公園で出くわした
狸のような奇妙な獣は、
「ぼく」の影を咥えて逃げ去る。
影を失った「ぼく」は、
目だけ残して
透明人間になっていた…。
「バベルの塔の狸」
第二篇「バベルの塔の狸」も、
わけのわからない世界が主人公
「ぼく」(アンテン)の前に現れます。
「ぼく」は一度は
「目玉だけ残した透明人間」へと
変身するのですが、
こちらは最後にはもとに戻ります。
しかしそれはもとの「ぼく」とは
似て非なるものへと
変わっていたはずです。
もちろんそうした変身が
何を表しているのか、
想像すらつきません。
「おれ」には帰る家がない。
なぜ「おれ」の家がないのか?
「おれ」は自分の家を
忘れただけなのか?
その疑問を解き明かせないまま
歩き続ける「おれ」。
ふと足下を見ると、
靴の破れ目から
伸びた糸が目についた。
「おれ」がその糸を引っ張ると…。
「赤い繭」
第一篇第二篇は中篇作品ともいえる
分量なのですが、
第三篇以降は小品です。
第三篇「赤い繭」は、
その表題通り、「おれ」は
帰るべき家を見失ったばかりか、
赤い繭へと変身してしまいます。
しかしそこに悲壮感はありません。
では、その変身の意味は何だったのか?
天文学者が望遠鏡で街を見ると、
労働者が
突然液化するのが見えた。
学者は世界に向けて
大洪水の到来を予言する。
その言葉通り、
労働者や囚人、農民などが
次々に液化し始める。
その「液体」には科学的法則は
全く通用しなかった…。
「洪水」
第四篇「洪水」は、主人公ではなく、
多くの一般人が
「水」に変化してしまいます。
もちろんそれは
単なる「水」ではありません。
「液体人間」と
途中から記されている以上、
意志を持った生物と
考えるべきでしょう。
でもそれはいったい何の寓話?
短いながらも全く分かりません。
貧乏画家のアルゴン君は、
空腹に耐えかね、
偶然見つけた赤いチョークで
パンやバター、りんごの絵を
壁に描く。
そのままうたた寝をした彼は、
夜更けに物音に目覚め、
そこに壁の絵の食物が
実物として現れているのを
見つける…。
「魔法のチョーク」
第五篇「魔法のチョーク」には、
「壁に描いた絵が実物となるチョーク」が
登場します。まるで
ドラえもんの未来のアイテムのような
ユニークさがありますが、
最後は悲劇で終わります。
主人公「アルゴン君」は
自ら生み出した「イヴ」に撃たれ、
「壁」に吸収されて終わります。
不潔……? とんでもない。
近代的設備のもとで、
高温加熱の過程を経て製造された
鼠肉ソーセージに、
いかなるバクテリヤが
留りうるというのか。
まさに蒙昧の言である。
残るところは気分にすぎぬ。
だが気分……気分とは一体…。
「事業」
第六篇「事業」は
最もおぞましい作品です。
人々が「ソーセージ」へと変えられる
未来が描かれているのです。
おそらく何かを風刺しているものと
考えられますが、いろいろなものに
置き換えが可能であり、その分、
焦点の定まらない恐ろしさを感じます。
これら六篇、学生時代に初読し、
以来、何度も再読しているのですが、
一向に読み解けません。
いや、正解を一つに求めようと
すること自体が無意味なのでしょう。
作品をその時代の社会の在り方に
照らし合わせ、
その時点での最適解を考える作業が
必要になるのかも知れません。
一気に読むべき作品集ではないことは
確かです。
一篇一篇、咀嚼しながら、
時間をかけて味わうべき
安部の初期の作品群です。
〔関連記事:安部公房の作品〕
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そのほとんどが
新潮文庫から出ています。
絶版になったままの文庫本も
いくつか見られます。
「幽霊はここにいる・どれい狩り」
「石の眼」
「カーブの向こう・ユープケッチャ」
「緑色のストッキング・未必の故意」
「死に急ぐ鯨たち」
これらが復刊する日が来ることを
願っています。
(2023.8.21)

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