「マシアス・ギリの失脚」(池澤夏樹)

何かが「崩れ去った」のではなく

「マシアス・ギリの失脚」(池澤夏樹)
 新潮文庫

「マシアス・ギリの失脚」新潮文庫

朝から話をはじめよう。
すべてよき物語は
朝の薄明の中から
出現するものだから。
午前五時三十分。
空はまだ暗いのに、
鳥たちが巣を出て騒ぎだす。
東の空は夜の漆黒から少しだけ
青みを帯びた色に変わって、
地平線のすぐ下に太陽…。

この長篇作品は、どのような
ジャンルに分類されるのだろう?
600頁の大長編を読み終えて、
その全貌をいまだ捉えられず、
呆然としています。
表題が示すとおり、
架空の小国家ナビダードの大統領
マシアス・ギリが突然失脚するまでを
描いた作品なのですが、
さてそれが何を表現し、
作者が何を読み手に
伝えようとしているのか、
つかめないでいるのです。
単純な「政治劇」などでないことは
確かです。
いくつか感じた「断片」を
書き散らす形で、
本作品の味わいどころを
拾ってみたいと思います。

〔主要登場人物〕
マシアス・ギリ
…ナビダード民主共和国
 第二・四代大統領。
ジム・ジムソン
…大統領首席秘書官。
カツマタ
…ケンペー隊(治安維持組織)総監。
ハインリク
…大統領専属運転手。
イツコ
…大統領公邸でのメイド。
 マシアスの身辺の世話係。
エメリアナ
…霊力・予言力のある少女。
 マシアスに雇われ公邸勤務となる。
リー・ボー
…二百年前に死んだパラオ王子の亡霊。
 マシアスの話し相手となる。
島の友
…日本官庁内情報源。正体不明。
アンジェリーナ
…娼館の経営主。マシアスの愛人。
 フィリピン人。
ポール・ケッチ&ピーター・ヨール
…アンジェリーナの娼館に滞在する
 白人。同性愛のカップル。
 常にI.W.ハーパー20年ものを飲用。
龍蔵寺一馬
…日本統治時代の海軍主計少尉。
 マシアスの日本滞在時の世話人。
ツネコ
…マシアスの日本滞在時の下宿の主人。
 マシアスと関係を持つ。イツコの姉。
ミカエル・ギリ
…若きマシアスを雇った商売人。
マリア・ギリ
…ミカエルの妻。ミカエル亡き後、
 マシアスと再婚、マシアスと二人で
 事業を拡大する。
コルネリウス
…初代大統領。マシアスを見出した。
ボノム・タマング
…第三代大統領。
 任期約三ヶ月で病死する。
鈴木貫六
…日本政府の秘密特使。
バス
…日本人慰霊団47人を載せた乗り物。
 本来の目的から外れ、遊蕩に走る。

本作品の味わいどころ①
マシアス失脚は何を表す?

本作品の味わいどころの一つは、
マシアスの特異な人物像です。
マシアスは独裁者です。
三代大統領タマングを排除して
政権に返り咲き、
戒厳令を敷くとともに議会を停止、
権限を大統領に集中、
不正な取引を行っていたのですから、
いわゆる
「汚職政治家」といえるでしょう。
しかしながら、
それは私利私欲のためではなく、
あくまでも国際舞台で
ナビダードの地位を
確立させるためなのです。
経済的ルールを逸脱した不正取引や
地上げに近い行為を
指示したりはしているのですが、
民衆を虐げてはいないのです。いわば
「かなり緩やかな独裁者」なのです。
しかも、立身出世の手段には、幾分かの
不正手段はあったのかも知れませんが、
その多くは自らの努力です。
少なからざる頁が、
彼の立志伝に費やされているのです。
決して悪人ではありません。
むしろ共感を呼ぶくらいです。
では、彼はなぜ失脚
させられなければならなかったのか?
表題が主題を表しているとすれば、
その点にこそ本作品を読み解く「肝」が
存在しているのであり、
最大の味わいどころとなるはずです。

本作品の味わいどころ②
非現実的要素は何を表す?

物語はナビダートに
石油備蓄基地をつくろうとする
日本政府と、
そこから利権を引き出そうとする
大統領マシアスとの、
生々しい駆け引き(あたかも
現実の国際協力の舞台にありそうな)が
一つの軸をなしています。
現実的な部分を細かく描写することで、
頁数が増大しているともいえます
(600頁で展開するのはわずか数日間)。
それに執拗に絡んでくるのが
幻想・非現実・霊的現象の存在です。
消息を絶ったかと思うと
神出鬼没に姿を現す「バス」
(その姿の現し方が、夜空の星座の中や
顕微鏡の視野の中など尋常ではない)。
行為者の姿が見えないのに
街々に貼られる大統領の中傷ビラ。
島唯一の鳥居を破壊した見えざる力。
何の違和感もなく
自然に物語に登場する亡霊リー・ボー。
島の未来の姿をマシアスに
可視化して見せつけるエメリアナ。
現実をシリアスに描写しながらも、
限りなくファンタジックなのです。
いや、
そのファンタジーの要素の中にも、
事実が巧妙にすり込まれ(例えば
亡霊リー・ボーは実在の人物)、
どこまでが事実でどこからが虚構か、
その境界が巧みに
塗りつぶされているのです。
その事象の意味や作者の意図を
考えることこそ、
本作品の味わいに繋がると考えます。

本作品の味わいどころ③
寓話的筋書きは何を表す?

そうなると、
本作品は何かの寓話ということも
考えられます。
非現実を織り交ぜながら、
現存する問題を鋭く告発しているとも
考えられるのです。
当てはまるのは何か?
一つは日本の置かれている
状況でしょうか。
本作品におけるナビダートと日本の
小国×大国の関係は、
そのまま日本×米国
(もしくは中国・ロシア)のそれと
読み取ることもできます。
もう一つは私たちの国における
権力構造という構図も
考えられます。
「国のため」というマシアスの言い分は、
都合の良い自己弁護にも聞こえ、
この国の政治家の言い分と
きわめて似かよっています。

ただし、まだまだ
分からないことがたくさんあります。
「失脚」という表題の割には、
結末の雰囲気には
爽やかささえ感じられることです。
マシアスの死には悲壮感は漂わず、
自分の望まざる形で
マシアスの子を宿したエメリアナは
それまで見せることのなかった
微笑さえ表すのです。
マシアスに関わった人物の多くも
決して不幸で終わっていません。
秘書官ジム・ジムソンは
手堅く政務を執り行い、
イツコはアンジェリーナのもとに
身を寄せます。
ケッチとヨールは
I.W.ハーパー20年ものを飲める環境に
たどり着きます。
「バス」は再び人々の前に姿を現し、
乗客たちは幾分若返り
瑞々しい表情で降り立ちます。
何かが「崩れ去った」のではなく、
あるべき姿に向かって
無事にソフトランディングしたような
印象を受けるのです。

すべて理解できなくても
いいのかも知れません。
時間をおいてまた読めばいいのです。
本作品は、
再読の価値ある小説だと感じます。
おそらく、本作品を再読するとき、
マシアスをはじめとする登場人物たちは
違った表情をもって、
私やあなたを迎えてくれるはずです。
大人のあなたにお薦めしたい一冊です。

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